眠りに落ちる前が、一番さみしい。




意を決して障子を一気に開ける。一瞬で綺麗に開けた目の前の景色に向けて深呼吸をひとつ。
その後すぐにぶるっと大きく身震いをしてしまった。
ただでさえ真冬の今、四方を山に囲まれている倉院の里はびっくりするほど寒い。首を竦めつつ気温がまだましな室内へ身体を避難させた。
寝相で乱した布団がまた恋しくなって思わず見つめてしまう。でも、その場所にぽつんと置き去りにされたある物を見てまた違う恋しさに胸が締め付けられた。
掛かってくるかもと、微かな期待を捨てられずに携帯電話を抱き締めて眠ることをあたしはもう何年も繰り返している。
彼と唯一繋がりを持つそれがあたしを呼ぶことは、ただの一度もなかったけれど。
眠りに落ちる前。彼と過ごした優しくて穏やかな日々の記憶から逃げ切れずに涙を落としたことを思い出して、また胸が痛んだ。






髪をとかし、結い上げる。その途中で背後の襖がノックされた。ノックといっても相手は襖だからその音はとても間抜けだ。そんなのしなくていいよって言っても人一倍真面目なあの子は律儀にも毎回してくれる。声を掛けると襖がすっと横に滑って、ひょこりと顔が覗く。

「おはよう、はみちゃん」
「おはようございます、真宵さま」

髪を押さえたままちょっとだけ首を捻って笑った。はみちゃんはもう髪も装束もきちんと整えた格好であたしの横へとやってくる。

「真宵さま、またビキニさまよりお手紙が届いてました」
「あ、もうそんな時期か。早いねぇ一年って」

小さいながらも豪快に笑うビキニさんの姿を思い返しながらしみじみと呟く。

「じゃあ、また霊場破りツアーに申し込んでくれる?もちろんスペシャルコースでね」

ビキニさんにはまた電話しておくから、と鏡越しに目を合わせて頷いた。 はみちゃんは嬉しそうに頬をほころばせた。

「心強いです、真宵さま」

自分の髪の長さに悪戦苦闘しているとはみちゃんがすかさず手を貸してくれる。
冬の冷気を含んだ黒髪を小さな手が撫でていく。

「全然だよ、あたしは。はみちゃんがいないと心細いよ?まだまだ修行しないとね」

はみちゃんはあたしの髪をすきながらまた少し笑った。最近は言葉遣いだけじゃなく、表情まで大人びていく。そんな様子に時の経過を感じた。

「真宵さまは強くなられました。前もでしたけど、あの頃よりもずっと、ずっと」

鏡の中に映るはみちゃんは同じように鏡の中にいるあたしを見つめて丸い目を細めた。
前。あの頃。尋ねて、何時のことなのか特定することは簡単だった。でも、そんなことをしなくてもあたしとはみちゃんの思い浮かべる時は一緒だろう。

修行の地として有名な葉桜院は、同時に実の母親を亡くした場所でもある。
その場を初めて訪れた冬。事件が起こり、それから始まった悪夢のような日々。
それを醒ましてくれた彼は今側にいない。弁護士という立場を捨てて、遠くにいる。

なるほどくん。

昔は毎日、何度も何度も、飽きることなく呼んでいた名前。なるほどくん。なるほどくん。

葉桜院の事件の二ヶ月後に、彼はあるミスを犯した。
罪じゃない。命をかけてもいい。彼が犯したのは捏造という罪じゃない。しっかりと調査をしていない証拠品を法廷に提出したというミスだ。
それでも彼は自分のしたことに対する責任をとるつもりなのか、ろくに弁解もせずに法曹界を去ってしまった。
あたしや、御剣検事や冥さんのことを避けるようになったのも彼の自責の念が強かったからかもしれない。
それから、なるほどくんからの連絡はなかった。
家元になるための修行が忙しいと自分に言い訳をしてあたしからも連絡することはしなかった。
あんなに近かった距離が日に日に遠ざかっていくことが怖くて、逃げていた。
でも、眠りに落ちる前思い出しては一人泣いていた。忘れようとしても遠ざけようとしても、どうしても逃げ切れなくて。

「真宵さま……」
「お、できた?さすがだね、はみちゃん!」

はみちゃんの両指が器用に動いてくれたおかげであたしの髪はいつもより綺麗に結われていた。
首を左右に捻り鏡の中の自分を確認しつつ、大げさに驚いてみせる。

「修行もやる気になっちゃうよ。よし、今日は激しくいくよ、はみちゃん!」

最初はきょとんとしていたはみちゃんだけど、一足先に立ち上がってにこにこするあたしにつられてにっこりと微笑んだ。

「はい、真宵さま。わたくし、おともいたします!」

立ち上がったはみちゃんと一緒に部屋を後にした。




なるほどくん。

なるほどくん。あたしは頑張ってるよ。なるほどくんのこと、あたしは今でも思い続けているよ。
遠くにいても、いくら時が流れても変わらないよ。
でも、どんなに心が一緒にいても、さみしいんだよ。だからはやくみんなの元へ帰ってきて。

いつか、また話せる日が来るまで。
あなたのこと待ってるよ。