事務所に寄ってくればよかったな。真宵ちゃんに会ってくればよかった。向かいに座る御剣の顔を見て、そんな見当違いのことを思った。
 携帯に着信があったことを数十分ほど遅れて気がついたぼくは慌ててこの場所へ来た。おかしいと思ったんだ。わざわざ外の喫茶店で待ち合わせなんて。コーヒーなんていつもぼくの事務所で飲んでいくのに。
 どんなにぼくが急いで奴の前に来ても、結果は何一つ変わらなかったのに。
 いや、違う。ただ、変わることは一つだけ。
 御剣の身体を庇うように広がる無数の鎖。中心の、御剣の胸の辺りには赤い錠前が見える。異様な光景にぼくは驚いていた。幻の鎖と錠前に対してではない。サイコロックと呼ばれる現象が御剣の前に見えたこと。そのことにただただ驚愕していた。
 真宵ちゃん、事務所にまだいたんだよな───
 小さな後悔がちくちくと胸を突く。真宵ちゃんに会って、借りたままだった勾玉を返していれば。このポケットに入れたままの小さな勾玉を手にしていなければ、ぼくは。
「……別れたい」
 御剣のつく最後の嘘に気付かずにいれたのに。

 

*


 今まで見たことのない表情で御剣は別れの言葉を呟いた。思わずテーブルの上に置かれていた御剣の手を握った。御剣は驚いたようだったけど逃げようとはしなかった。
 唇を噛み締め、俯いたまま視線を一箇所に固定する様子はまるで、涙を堪えている子どもに見えた。何をそんなに我慢することがあるのだろう。ほんと、最後の最後まで素直じゃない。
 他人が思うほど、そして君が思うほど、そんなに君は強くない。悲しければ素直に泣いてもいいのに。
 御剣の手が小さく動いた。俯いたままだった顔が持ち上がり、ぼくの方へと向けられた。ぼくを見た後に苦笑する。
「情けない顔をするな」
 瞬きをするととても小さな水の粒が目尻を伝った。あやすように握っていた手を上下に動かすと御剣はまた笑った。泣き笑いの表情を不器用に浮かべて。
 今は泣いてもいいよ、ぼくも一緒に泣くから。
 そう思いながらぼくは御剣の手を握っていた。

 

*


 二人の間にはもうすでに言葉はなく、周囲のざわめきだけを聞いて数分を過ごしている。
 するべき話は尽きていた。あとはもうお互いにこの場を離れるだけだ。
 結末が揃っているのに、御剣の手を握った手が動かなかった。
 この手を離した瞬間、ぼくと御剣の縁は切れる。御剣の中ではもうとっくにぼくとの縁は切れているのだと思う。そうは思ってもぼくは手を離すことができなかった。離してしまえばもう二度と会えない。二度と触れない。それがわかっていたから。
 御剣は困惑したのだろう、また俯いてしまっていた。生真面目な奴のことだ、自分から別れを切り出したことに罪悪感を感じているのかもしれない。自分の勝手で申し訳ないと謝罪を繰り返しているのかもしれない。普通の別れ話でそこまで思い悩む必要もないとは思うけれど、こいつの場合、悪夢をずっと現実だと思い込んで自分を追い詰めていたという前例があるから笑えない。
 仕方がないなぁ、と見つからないように溜息をつく。
 付き合っていれば別れることもある。それは男女でも男同士でも変わらないことだろう。ぼくと御剣が見ていた方向は全く違うものだった。二人が共通する目的地なんてどこにもなかったんだ。それを悔やむ必要はない。ひとつの通過点だったと割り切ればいい。
 遠い未来に今を振り返ればきっと、いい付き合いだったと思えるだろう。すぐには無理でも時間をかければ必ずそう思える日が来る。
 お互いにそう思うためにも、まずはこの場で別れなければ。
 全てが過去のものへと変わる言葉をぼくは心の中で生み出した。重なっていた手が離れたのを感じ、御剣は顔を上げる。泣きそうなのに泣いていない顔。ぼくとの別れを惜しんでいるのか罪悪感に悩んでいるのか、なかなか判断がつかなかった。都合のいい風にしか解釈できない自分が情けなくて笑いが零れる。
  ぼくは君の言葉や仕草ひとつひとつに悩み、怒り、涙し、そして喜んで。そんな風にしてとても長い日々を過ごしてきた。
 それもこの瞬間で全て終わってしまった。
 さようなら、と言い掛けてやめた。そして自分なりの言葉でぼくは別れを告げるのだ。

「またな、御剣」

 自分の心に頑丈な鍵と鎖が掛かるのがわかった。そして、忌々しく思っていたポケットの中の小さな重みに安堵した。
 よかった、これは御剣には見えない。