高いビルの窓から見下ろす景色は数年前と大して変わらない。そして、部屋の中の景色も大して変わらない。
 それもそのはずだ。この部屋の主である私は長い期間、海外にいた。そしてこの執務室は私以外の人間に宛がわれる事はなかった。結果、この部屋には人が一人も踏み込まず、日本を離れた当時そのままの風景が私の目の前に広がっていた。
 窓際に置かれたティーセットに薄っすらとほこりが積もっている。思わず眉をしかめてしまった。その隣を陣取る、槍を持ち勇ましく構える置物は日に当たり続けたせいか少々色褪せが目に付く。しかし、それでも欲しがる人間は大勢いるだろう。もう十年も前に終了した特撮番組のファンは、今だ根強く存在しているらしい。次に壁に掛けられた額を見上げた。そこには私が法廷に初めて立った時に身につけていた服が飾られている。完璧であった師匠を模倣したかのようなデザインに思わず目を細めた。あの頃の記憶と思い出は、さらに遠い存在となって私の胸を締め付ける。
 視線を滑らせると目に付くのは赤色と青色。チェスボードの上に置かれた小さな駒たち。
「…………」
 沈黙に浮かび上がる、ある人物の影を頭を振って追い出した。
 昔を顧みる時間などないはずだ。私は中心に備え付けられたデスクへと付き、積み重ねてある一番上の書類を手に取り目を通し始めた。

 七年振りにこの国に戻った理由はただひとつ。日本の法廷へと立つ為だ。もちろん、検察官として。
 序審法廷のしわ寄せか、今の日本の法廷は崩れかけていた。それは海外での法廷を数多く見てきた私からすれば歴然としたものだった。
 序審法廷というシステムは短期間で判決を下すため、真実を見つけるまでにたった三日しかない。そのシステムが有効的なのは裁判官、そして弁護士検事という法のエキスパートで成されている場合のみだ。逆に言えば、法曹界のレベルが下がればその分裁判の質も落ちる。そして。質が落ちれば真実への道は遠ざかってしまう。
 現在、日本でもっとも有名な弁護士の裁判記録を読んで辟易した。独特の言い回しで証言を煙に巻き、論点から目を逸らさせる様な弁論で真実へと到達できるのだろうか?純粋に疑問に思った。私が弁護士と認めた男はそのような手法はとっていなかったからだ。
 私の知っている弁護士は、違う。
 とても小さな矛盾も見逃さない。彼の指摘はいつも的を射ていた。私は今までに何度も立ち会った。───彼の織り成す、針の穴から全てを暴き出す奇跡の法廷の数々に。
 その時無遠慮に電話が鳴り出し、私は我に返った。表示を見れば警備室からだ。何事だろうかと眉を寄せ受話器を上げた。
『あの、御剣検事、どうしてもお会いしたいと仰る方がいらっしゃってるのですが……』
 電話の相手はおどおどとした様子で用件を伝える。その口調に苛ついた。この国を長らく離れていた私の人格など知られていないはず。しかし、彼の口調は明らかに私を畏怖していた。私がこの検事局でかなり上の立場であることを認識しているのだろう。格下の者へと当たるほど私も愚かではない。が、今はタイミングが悪かった。
「約束のない来客は全て断るように言ったはずだが?」
『いえ、しかし……』
 刺々しくそう返した後、私は受話器を置きそのまま通話を終了させた。言い訳を聞く間も惜しい。
 読みかけていた法廷記録にもう一度向き合う。掛けていた眼鏡を指で押し上げた。読んでいるだけで頭が痛くなりそうだった。
 私一人でどうにかできることなのだろうか?この、徐々に腐っていく日本の法廷を。果てしなく高く聳え立つ壁の前に一人立たされているように思えた。
 一体、どう立ち向かえばいい?
 コンコン、と扉を叩く音。全く予想をしていなかった来客に返事をすることを忘れた私を無視し、扉は開く。
───失礼するよ」
 現れた人影に目を見開いた。来訪者は迷いのない足取りで部屋に足を踏み入れると紅い布の貼られたソファーにどっかりと腰を下ろす。
「貴様……!」
 その後の声が出なかった。
 黒いパーカーに水色の帽子。だらしのないスリッパなど、この検事局で見るなどあり得ないことだ。男は背もたれに寄り掛かり、デスクについたまま彼を凝視する私を見つめ薄く微笑んだ。その胸には何も輝いていない。
 心臓がどくどくと激しい音を立てて動き回っているのがわかる。息をするのも唾液を飲み込むことも瞬きも。全ての動作を忘れ、私は男を見つめる。
 彼の特徴であるものは全て失っているのに、何故、瞬時に彼とわかるのか。
「……よく私の前に顔を出せたな」
 とても低い、低い声が唇から発せられた。わなわなと私の唇が震える様を見、男は一瞬だけ目を細めた。
 静かな怒りが私の中で渦巻いていた。
 2019年。あるひとつの事件がきっかけで、一人の男が法曹界を追放された。奇跡の逆転裁判を何度も起こしてきたその弁護士は、捏造された証拠品を法廷に持ち込みそれを相手の検事に暴かれた。そして彼はろくに弁解もせずに法廷を去ったという。そんな彼を潔いという肯定的な意見も当時はあったが、私には到底そうは思えなかった。
 逃げた、と。そう思えたのだ。
「今まで何をしてたのだ」
「随分なごあいさつだな」
 ふっと男は俯いて笑った。
 言葉の少なすぎる短い会話の応酬に、俄かに既視感を覚えた。あれは確か、もう数年も前のこと。あの時は彼が私を詰っていた。悲しみと怒りを湛えた黒い瞳と、胸に輝く金色のバッジが私を正面から刺し、ひどい罪悪感を感じたのを覚えている。
「今更、何をしに来た」
 過去を振り切る思いで会話を続行させる。
 言いたいことは山ほどあった。相手を怒鳴りつけたい気持ちもあった。けれども、今まで求めていた人間を現実に目の前にし、そしてその人間が堕落した姿をこうして見せ付けられてしまうと、気持ちに言葉が追いついてこない。そう短く問い掛けるだけで精一杯だった。
「……何しに来たかって?決まってるだろ」
 男は立ち上がる。水色の帽子を深く被り直し、歩み始める。静かに私の元へと。やはり、全く迷いのない足取りで。私のデスクの前で男は立ち止まった。黒く大きな瞳が、射抜く様な強さで私を捕らえた。
 側で見て、私はようやく気付くことができた。その瞳は炎を失っていなかった。いかなる時も諦めを知らない。たったひとつの真実のためだけに、どんな不利な状況でもただ前だけを見据える瞳。私と対面する弁護人席という場所で、いつでも輝いていたあの目。
 成歩堂は私から少しも目を逸らさずに口を開く。
「今の裁判をぶち壊しに来たんだよ。───御剣」