「何、するんだよ」
普段通りに言ったつもりだけれど、裏に潜む恐怖心が声をわずかに震わせていた気がした。
両手を背中の後に縛られ、バランスをうまく保てなくなったぼくは大きなソファーに顔を擦り付けて御剣を睨む。茜ちゃんがふかふかと表現していたソファーは確かに驚くほど柔らかかったけど、こんな不自然な格好では座り心地を感じることなんてできない。
御剣の執務室を訪れたぼくを待っていたのは、御剣の奇妙な行動だった。様子がおかしいことを心配し問い掛けるぼくの腕を掴んで捻り上げて、ネクタイを無理に解いて両手首を───
それ以上思い出すのも腹ただしい。ただただ、今の状態が悔しくて堪らなかった。
なぜこのような屈辱を受けなければならないのか。同い年の……同列に立つはずの男の前に拘束されてみっともなく転がされて。こういう状況に至った理由が全然わからない。
悔しさと混乱が頭の中で渦巻いて、その感情のまま相手を罵りたい気持ちもあった。でもぼくはそれをしなかった。
御剣が無表情でぼくを見下ろしていたからだ。自分一人平常心を無くして喚くだなんてそんな情けないことはできない。したくない。驚くことに御剣の一連の行動には無駄がなく、まるで全てを予測していたようにも思えた。
そして、それが不思議で余計に怖かった。
電話で会話した時に感じた違和感は見事的中していたようだ。御剣は確かに様子がおかしかった。でも、こんなことになるなんて考えもしなかった。友人を救いたいその一心でぼくは走ってここまでやってきたのに。どうしてこんなことに。
「なぁ、御剣。何が……あった?」
不自然な格好のまま首を捻り、重い声で問い掛ける。少々掠れたけれどぼくは気にしない。どんな格好、状況であろうと対等な姿勢を崩したくはないから。もう一度、名前を呼ぼうとして。ぼくは気が付いた。
御剣の雰囲気が今まで自分の知っているものとは全く違うことに。
御剣の表情は変わらない。ぼくがこのような風になっても、睨んでも、何ひとつ動かされないままぼくを見遣る。その視線に込められた冷気に気付き、思わず目を見開く。
巌徒局長によく似た、硬質の空気を。奥底の見えない恐ろしさを。見る者を押し潰すような威圧感を。
御剣は持っていた。持って、ぼくを見下ろしていた。
それは、彼はいつ身につけたのだろう?どこで学んだのだろう?いや、もしかして隠していた何かが剥がれ、本当の姿が現れただけなんじゃないのか?巌徒局長があの大らかな笑顔を捨てた瞬間のように。
御剣の指が置いてあるチェスのひとつへと伸ばされた。赤い中にたったひとつ投げ込まれていた青い駒。それを手に取り御剣は微笑む。彼の無表情がようやく壊れたことに安堵したのも束の間、その無意味な仕草に不安はさらに深まった。青い駒は音もなく御剣の手の中に落ちると、その手のひらに完全に包まれた。何てことのない光景なのに、なぜかぼくは。そこから、目が、離せない。
「……そういえば君は、チェスはよくわからないと言っていたな」
状況に全くそぐわない話題にぼくは余計に混乱した。チェス?それが、今のぼくたちにどう繋がっている?
駒を持ったまま手の持ち上げ、御剣は綺麗に微笑んだ。整いすぎて隙のない笑顔。背筋が凍る。人差し指で庇うように駒の背を支え御剣は目を閉じた。緩く閉じられた唇が青い駒に当てられる。ゆっくりと丁寧に御剣はとても小さな青い色に口付けをした。次に舌を出す。ちろりと赤い色がぼくの目を射した。言葉を失って固まるぼくに、まるで見せつけるようにして表面の凹凸を舐め上げる。御剣のじっとりと生温い舌先が自分の心に直接触れてくるようで───恐怖心が一気に湧き立つ。
呆然とするぼくに御剣は笑いかけてこう囁いた
「私が教えてあげようか?」
なにを。
声が喉に張り付いたまま出てこない。御剣の靴底が、床に当たる冷たい音が耳を詰る。ぼくと御剣、その二人しか存在しない執務室では全ての音が克明に響く。小さな音、ひとつひとつがわけもわからず恐ろしくて。逃げようとしたのに背は御剣と同じ色のソファーに阻まれた。縛られている手の先の指がどんどん冷たくなっていくのが感じられた。そしてついに、動けずにいるぼくのすぐ前にまで御剣はやってきた。
「君の身体に……直接、な」
御剣は青い駒の先端を軽く舐めた後、怯えるぼくの表情を確認した。見て、クッと笑う。そんな顔で笑う奴をぼくは初めて見た。そんな残酷に美しく微笑む親友の姿を。
御剣の手の中にいまだ存在する青い駒、御剣の微笑み、拘束された両手。冷や汗が背中を伝い降りていく。
そして、視界は闇に覆われた。赤い色の闇にもう、全てのものが。