白々しい光が成歩堂の瞳を、頬を、照らす。私の持つものよりも大きい黒目がじっと空に固定されていた。今宵は満月だ。成歩堂の事務所から見える月は丸く大きく、欠けることなく。夜と言う暗い闇の中、綺麗に輝いていた。
 成歩堂はそれを見つめる。瞬きの回数も少ない。そんなに眩い月を真っ直ぐに見つめて目が痛くならないのだろうか。私はそんなことを気に掛けていた。
「ありがとう」
 月を見たまま、彼が呟く。視線が空から降りてこなかったため、一瞬誰に向けられたものかわからなかった私の反応が遅れる。とはいえ、今この事務所には私と成歩堂しかいないのだから、それは当然私に向けられたものになる。
「何だ唐突に」
「いや、言ってなかったと思って」
 そんな短い会話を、昔もしたことがあった気がする。しかしその些細な疑問を私はすぐに横に追いやった。
 成歩堂は俯き、ようやく視線を落とす。だが相変わらず私には与えられない。
 そこで気が付いた。彼は私から目を逸らしているのだと。
「常に片付けていればいいものを。貴様の狭いデスクの上が
一番時間が掛かったではないか」
「はは。他は真宵ちゃんに頼んでいたからね。……でも、もういらないものばっかりだから。全部捨てたらすっきりしたな」
 いつものように軽口を叩くつもりだったのに、不器用な私は失敗してしまったらしい。成歩堂は力なく笑い、寂しげな眼差しで己のデスクを振り返る。そこに積んであった書類たちは全て、床に置かれた段ボールの中だ。書棚にぎっしりと詰め込まれていた法廷記録も仕舞われている。
 それは、成歩堂法律事務所の終わりを示していた。
 被告人が判決の前に姿を消した、前代未聞の裁判。そこに成歩堂も立ち会っていた。しかも、捏造された証拠品を法廷に提出した弁護士として。
 連絡を受け、私は二度目の緊急帰国をした。待っていたのはふてぶてしく笑うのではなく、力なく笑う成歩堂龍一だった。
 そして彼は驚くべき事実を告げた。弁護士協会の査問審議機関の決定で、彼が何よりも大事にしている弁護士バッジを剥奪されることになった、と。
 里に帰っている真宵くんの代わりに事務所の片付けを手伝う内に太陽が隠れ、満月が顔を出した夜になってしまったのだ。
 成歩堂が弁護士バッジをつけている、最後の夜でもある。
「真宵くんはまたすぐに戻ってくるのだろう?」
 成歩堂は無言で首を振った。
「助手は辞めてもらったんだ。もう、法律事務所じゃないから所長も副所長もないだろ?」
 彼は驚くほど淡々と、自ら過去と決別していくことを言う。法廷に立っていた時は諦めを知らない目と恐ろしいまでのしつこさで食い下がってきたというのに。自分のこととなるとこうもあっさりと諦められるのか。理解できない男だ。
「御剣」
 ただの呼び掛けだが、私は神妙な面持ちで振り返った。彼のその声に緊張の色が感じ取れたのだ。
「何だ」
「あのさ。もし、ぼくを……嫌いになったら。離れて行ってくれよ」
 成歩堂は目を逸らしたまま、私の存在までも突き放した。予想できたことなのに完全に油断していた。私は胸を突かれ、何も言えなくなってしまう。
 弁護士の成歩堂。私の目の前に立ち、完璧であるロジックをでたらめな弁論で阻む男。真実を共に見つける男。その姿が永遠に失われてしまったのだ。
 ──嫌いになるはずがないだろう。
 そう返せばいい。しかし私の口は動かない。
 嘘が吐けないのだ。どうしても。不器用で、上手く話せない、自分は。
「御剣だなぁ」
 表情から思考を読み取ったのだろうか。成歩堂がそう言って表情を緩めた。笑顔に成りきれていない、微かな笑い。
「お前のそういうところ、好きだよ……」
 触れることで誤魔化した。頬に添えられた私の手に成歩堂は一瞬目を見開くと。また閉じる。きつく。きつく。きつく──
 成歩堂の下ろしていた手がわずかに動く。けれども、決して持ち上げようとはせず。
 私も彼の白い頬に手を触れさせたまま、動くことができない。小さな震えを感じようとも。音もなく流れた透明の水が、その指を濡らそうとも。
 二人距離を詰めることはせずに、ずっと。