受けた衝撃に遠ざかっていた意識が、ようやく戻ってきていた。男は無言のまま目を瞬かせる。別に何かを探そうとしたわけではない。現に彼の視界には目新しい何かが映るわけでもなく、無機質な色をした天井が広がるばかりだった。
のろのろとした動きで男は口元を拭った。中途半端に生えかけた髭のざりざりとした感触と共に指に付着するのは、赤い液体。殴られた瞬間に唇を切ったのだろう。痛み自体は引いているものの、視覚的に赤い血液を見るとそれにつられて痛みが甦ってくるようだ。男はまるで痛みに耐えるように固く目を閉じると、身体を横たえたまま数分前の出来事を回想し始めた。
ゲームに負けた客が逆上して殴りかかってくるのは決して珍しいことではない。決して、珍しいことではないのだが。避けるのが遅すぎたのか今回はまともに食らってしまった。食らっただけでなく、惨めにもゲームが行われていたテーブルの上に倒れ軽く意識を飛ばしてしまったらしい。
男は目を開く。開いたばかりの目を細め、空に持ち上げた自分の手を見た。目深に被る、ニット帽に潰された特徴的な眉が歪んだ。
カードをきることに馴れた指がそこにあった。自分のものであるのに自分のものではない。そんな感覚に一瞬だけ苛まれたのだ。この手は、この自分の手は、数年前、確かに他の働きをしていたはずなのに。
にわかに生まれた疑問は心に重く圧し掛かり、男はその手を下ろして自分のまぶたへと押し当てる。
近い内に自分はかつていたあの場所に戻ることとなるだろう。しかし、前とは完全に異なる立場で。それは予感ではなく確信だった。このままこの部屋に留まり続けることで状況が覆されるはずもない。きっと、何かしら変化が起こる。そしてそれは自分に優位なものでは決してないことを、男はよくわかっていた。
馬鹿なことをしようとしている。
新米の弁護士に一体何ができる?考えるまでもなくその答えは即座にはじき出された。
無罪へと導く勝利の女神が新人弁護士の隣に立っているわけではない。そう、あの時の逆転の裁判のように。あんな奇跡はそう何度も起こらない。
男は笑う。唇だけを不自然に歪ませる不完全な笑み。自嘲の笑みで淡く燃えた希望を打ち消す。そんな仕草をもう何度繰り返したのだろう。
七年間という歳月は彼の中の情熱を冷ますには十分すぎる時間だった。
しばらくして、男のかすれた呟きが地下室の中に落とされた。
「痛い───……」
それが肉体的なものか、心的なものなのか。
彼には理解できなかった。