まずは脳内設定から |
みぬきが出掛ける夜は、ぼくも決まって外出する。
それを知った王泥喜君はあまりいい顔をしないものの、みぬきが笑顔でぼくを送り出すため特に何も言わない。最も、何かを言われたとしても元々取り合うつもりもない。それを事前に察して無言を通す彼は、賢いといえば賢い。
王泥喜君よろしく頼むよ、と笑顔を向ければ彼は渋々といった様子で頷いた。その横からみぬきが顔を出して、パパ、また明日ね!なんて親子が夜に交わす会話らしからぬ言葉を掛けてくる。それを聞いた王泥喜君の顔はますます渋くなった。多分、ぼくが現役だった頃によく似たツッコミを心の中でしていることだろう。
自分でも嘘くさいと思うようなにこやかな笑顔を成歩堂なんでも事務所に置いて、夜の世界へと足を踏み出した。
外に面した窓を見れば、部屋の主は明らかに不在だった。それに気付いてもぼくは特に驚きもせず、マンションのオートロックを解除しエレベータのボタンを押す。開いた扉の真ん中を通り箱の中に入ると目的の階数を押し、空間が押しあがる感覚に身を任せた。
エレベータを降りて歩いて、最終目的地であるドアの前で立ち止まった。向かい合うドアの横に存在するチャイムは無視し、ポケットをまさぐった。取り出した鍵を鍵穴に差し込んだ。鍵は操るまま何の引っ掛かりもなく動き、あっさりと開錠する。最初の頃はその音を聞く度に罪悪感を感じていた。でも、今となっては慣れたものだ。使用し終わった鍵をパーカーのポケットに戻し、自分の身体を中に滑り込ませた。
電気をつけた後、部屋の中を見渡して深く息を吸い込む。他人の家はいつまで経っても他人の家でしかなくて、自分以外の存在のにおいにいつも一度は立ち止まってしまう。でも、何故かそれにとても安堵する自分が自分で信じられなかった。
サンダルを脱いだ足が、歩く度にぺたぺたと間抜けな音を発した。マンションにしては広いリビングに置いてあるソファへと腰を下す。頭に手を掛けて被っていた帽子を脱いだ。情けなくへたる髪を撫でつつ溜息を吐いた。常に被っているとさすがにちょっと蒸れる。まあ、通気性のいいニット帽なんてあるわけがないんだけど。
テレビをつける。特に興味のない番組が流れ、ぼく以外の人がいない静寂の部屋の中に派手な歓声が響いた。
そこまでして、やることが終わってしまった。また溜息をついて背をソファに凭れ掛けさせた。ぼんやりとさせた目でテレビを追いつつ、頭では他の事を追いつつ。
夜は長い。一人ではなく、誰かを待つ夜だから。
ごろりとソファに身を横たえてみる。時計を見る。午後九時。夜が遅い自分とアイツにしたら、それはまだ早すぎる時間帯だった。
早い。早いなぁ。
そう思ったら何故か急激に心許なくなり、この部屋の鍵とは逆のポケットに入れておいた携帯電話を取り出す。思わず奴の名前を呼び出そうとして────慌てて我に返る。何やってるんだぼくは。
携帯の番号を知っているからいつでも掛けていいなんて、そんな道理が通るわけない。相手は検事局の中でも優秀で、様々な仕事をこなすだけではなく統括する立場に立っているような人間で。仕事の量もたぶんぼくが思っているより多く、早く帰って来れないのは当然のことだ。
たった一度、裁判員制度を推進する委員長を務めたぼくとは違う。そう軽々しく連絡を取っていい間柄ではない。こうやって、鍵を預かって部屋に上がりこむことだって、本当は許されないはずなのに。
……身分をわきまえろ。
そう自分に言い聞かせた後、可笑しくて唇を歪めた。身分なんて、いつの時代の話だろう。とは思うものの、自分と相手の間にある立場の差は明らかなものだった。
こういう時、弱い自分を自覚する。七年前に失った弁護士バッジに対する未練なんてない。そう思っているはずなのに、そう思っていたはずなのに。
手放さなければよかったなんて、もうどうしようもないことを考えてしまう。
その時、ふとテレビに映ったに人影に瞬きをした。
昔も今も大人気の特撮ヒーローだった。彼がイメージキャラクターを務める商品が大きく映し出される。最後に、彼がそれを持って見ている側に思い切りアピールをしてきた。正直、そのビジュアルのほうに目が行って商品なんか見てられないんだけど。そこでCMは終わる。
シュールなビジュアルの彼と突然出会ってしまい、昔感じていたように何とも言えない気分になる。何なんだ、とついついやる気のない突っ込みをしてしまいたくなるような。
そのヒーローを思い出すと同時に、あの子のことも思い出した。それはほぼ条件反射に。黒髪、和服、屈託のない笑顔。しばらく会っていない彼女の姿が鮮明にまぶたの裏に浮かび上がる。
そうだ、と呟いて立ち上がった。レポート書かなきゃ。何故かわからないけどそれは今のぼくの義務となっているのだった。
彼女がどっさり送ってきたDVDは残念ながら事務所だ。でも、彼女と同様に特撮ヒーローをこよなく愛する奴のこの自宅にも同じDVDが置いてあるかもしれない。そう思ったからぼくは、さして見たくもないトノサマンのDVDを勝手に探し始めた。
最初はテレビの近く、次に本や雑貨が収納されている棚。可能性の高い場所を探していくのに、一向に見つからなかった。そろそろ諦めようかと、一番下の引き出しを開けた時に。
「────」
思わず絶句する。言葉が出てこなかった。
一目見て、その数の多さに差出人の執念を感じるような手紙の束。そんなものを見るだけでも驚くのに、それが過去の自分が書いたものと気付けば、誰だって絶句もする。
「………」
恐る恐る、手を伸ばしてみる。かさりと、時間の経過によって水分を失った紙が音を立てた。それらが投函された時期は宛先の住所を見ればすぐにわかる。学級裁判で奴に救われた頃、ぼくと奴と矢張が同級生だった頃の住所。それと、奴が検事になってから初めて配属された検事局。黒い疑惑と新聞に書かれたのを見て、いてもたってもいられなくなり新聞社に彼が所属している検事局を問い合わせたのを思い出した。
内容は中身を見なくてもわかる。今となってはもううろ覚えだけど、信じてるだの味方だのくさいことを書き連ねたのを覚えている。
────恥ずかしい。
それは、純粋に恥ずかしかった。昔の青い自分がこうやって物として残っている。そしてそれが目の前にある。恥ずかしくて、早く引き出しを閉じてしまえばいいのに、ぼくは視線をそれから離す事ができなかった。
全部開封した後がある。全部読んだ跡がある。恥ずかしくて堪らないのに、そう気付いた事が嬉しくて嬉しくて。
返事なんてくれたことなかったじゃないか。実際に再会した後も、このことは綺麗に無視されていたから、きっと読まずに捨てたんだろうと思っていた。思っていたのに、なんでこんなのをとっているんだろう。読み終わったのなら、早く捨ててしまえばいいのに。
でも、御剣はこれをこうしてとっていた。
どんなことをしても信じてくれる相手が、どんな風になっても味方であってくれる相手が。どんなに大切なのかを────もしかして、もしかしてだけど。御剣はこの拙い手紙たちから受け取ったのかもしれない。
いやいやいや、と首を振る。自惚れるな、自惚れるなと呟いて頭をかく。そんな、自分が人の人生に手を加えた存在であると、思うだけでもおこがましい。自惚れるな、ともう一度呟いた。
でも、それでも。
自分の顔が赤らんでいくのを感じる。思わず口元を覆った。三十過ぎの男が頬を赤く染めている様子なんてきっと、気持ちが悪いだろうから。
君に、聞いてみてもいいかな。ぼくの手紙が、君に何かを与えたかどうかを。
この恥ずかしすぎる手紙たちは、ぼくの味方になってくれるだろうか。これを証拠品として突きつければ、御剣も心情を吐露してくれるかもしれない。
「御剣、はやく。帰ってこいよ……」
呟いて、そのまま床に寝転がった。ここで寝転べば玄関の扉がよく見えることに気がついたからだ。帰ってきた御剣の顔を一番早く見れる方法だから。当の本人には行儀が悪いと怒られそうだけど。
目を閉じた。現実の御剣にはまだ会えないから、自分の記憶の中の御剣に会おうとして。
一秒一秒ごとに。まるで呼吸をするように、当たり前に。君のことばかりを考えているなんて、知ったら君は笑うかな。
御剣。君に、早く会いたい。
読んでくださってありがとうございましたー |