「千尋さん……」
「触らないで」
それは、いつも通りの拒否の言葉。でも。
「千尋さん」
「触らないで、って言ってるでしょう……?」
肩を震わせ、涙をこらえながら…千尋さんはぼくの胸にしがみついた。頬の近くに揺れる茶色く細い彼女の髪。それをぼくは手に取る。片方の手は彼女に回して思い切り抱きしめた。
ぼくの胸に額を押し付け、千尋さんはぼくの名前を呼んだ。それはとても小さくて、か弱くて、いつもの彼女からは想像もできない声だった。
「千尋さん」
ぼくも名前を呼び返すと彼女は顔を上げる。 そして、ぼくたちはそっと唇を重ねた。それはまるで初めてしたもののようにぎこちないものだった。他人の唇に触れる行為なんて今までもう何回もしてきたけれど──
キスが、こんなにも愛しくて悲しいものだと、ぼくはこの時初めて知った。
唇を離し、目をもう一度合わせる。千尋さんの目はやっぱり後悔していた。 ぼくたちはすでに別れている。生きている者と死んでいる者とで。
「な……」
呼びかけた彼女の口を、キスで塞いだ。強張った身体が彼女の困惑した様子をぼくに伝えてくる。それでもぼくは止まらなかった。止められなかった。 こうして触れ合う唇も、柔らかな弾力を返す身体も、愛しく優しくぼくの髪を撫でる指も、ぼくが昔に想い描いていた通りのものだ。憧れていた彼女を今やっと手に入れたのに……どうして。
体重を掛けてデスクの上に彼女の身体を倒した。千尋さんの瞳が細められる。 そしておびえた目でぼくを見つめた。
「やめて」
「本気で言ってるんですか……?」
そう聞くと、彼女は眉をぎゅっとしかめて目を逸らした。ぼくは弱い力で押し返す彼女の手を捕らえた。指を絡めて手の甲にキスをする。
「やめなさい……」
千尋さんはそれでも抵抗をやめない。それは声だけのものだったけど、上司だった彼女の言葉は何よりもぼくに影響を与える。一瞬でも怯んでしまったぼくはそれを振り切るかのように彼女の指を解放し、自分の手のひらで口を直接塞いだ。
声を出せなくなった千尋さんは首を振ってぼくを拒否した。
「……好きです、千尋さん」
悲しみに歪んだ瞳がぼくの愛の告白を受け止めた。心がきりりと痛んだけどぼくはそれを無視して胸元に唇を寄せる。 両手を使って彼女の着物のあわせに手を掛けた。
「……な、なるほどくん……?」
不意に響く、声。ぼくは驚いて手を止めた。 ぼくの身体に組み敷かれて、目を見開くその姿は……真宵ちゃんのものだった。
「やだ……」
真宵ちゃんは小さく呟き、両手を胸の前まで持ってきて自分を隠す。 彼女は一瞬でこの状況を理解したのだろう。ぼくが、千尋さんを抱こうとしていたことを。
「ごめん」
「───やだ」
謝ったぼくの言葉に首を振る。その大きな目は、ぼくから離さずに。
真宵ちゃんは一度瞬きをした。瞳の淵からしずくが生まれる。それはみるみると大きくなっていき、自身の重力に耐えかねてその身を頬に落とした。 音も立てずに彼女の頬を流れ落ちていく涙をぼくはただぼんやりと見つめていた。迫るぼくの身体を押し返そうともせずその小さな身体を震わせて涙を流す姿は、ぼくの心を容赦なく切り裂いた。