目の前で崩れ落ちた少女を慌てて抱きとめる。この少女が何者なのか……それも気になるけど、今はそれどころじゃない。 事務室のソファへと彼女を運んでぼくは再び所長室に足を向けた。
(所長……)
 血の匂いを全身で感じるのは初めてのことだった。頭の中でシグナルが響く。 ぼくは手を震わせながらちゃんと閉まっていなかった扉を押す。
────
 言葉が出てこなかった。月影の中、がくりとうな垂れる一人の人。 長い髪がその表情を隠している。でも、それは間違いなくあの人だ。今朝、ここを出るときに笑っていたあの人。他愛もない会話と穏やかな微笑と。
 しばらくしてぼくはやっと足を踏み出した。
(所長)
 心の中で、何かを祈りながら。散乱した書類を踏まないように、ゆっくりと足を動かして。
(所長……)
 鼻をつく血の匂い。ぴくりとも動かないその人影。
(……所長)
 絶命していることは明らかだった。
(……千尋さん)
 やっと彼女の前についたぼくは膝をついて視線を落とす。そして恐る恐る手を伸ばす。いつも目の前にあったその柔らかそうな身体は音も立てずに ぼくの手の中に収まってしまった。
(!!)
 その瞬間、ぼくはびくりと身体を揺らした。
(千尋さん!!)
 その身体は、驚くほどの速さでぬくもりが消えていく。先ほど抱えた少女の体温とは違いすぎる。それは紛れもなく生きているものと死んでいるものの違いで。
「ちひろさ…」
 ぼくは涙で声を詰まらせながら一度だけ彼女の身体を強く抱きしめた。 失われていく体温をどうにかこの場にとどまらせたくて。
「…ひ、ろさん…」
 でもそれは無駄なことだと悟る。 それはあっという間に逃げていく。溢れさせた涙が頬をすべり顎から流れ落ちていく。その間にも冷たくなっていく身体。 ぼくの流す涙よりも速く、彼女は変化していった。ぼくの頼れる所長からただの死体へと。
「…ち、ひろさん…」
 こうして彼女の身体に触れるのは初めてのことだった。
 ぼくの言葉をいつも先読みして、言いたいことも言わせてくれなくて。

───こんなときまであなたはぼくから逃げるんですか?)

「千尋さん…!」

 耐え切れない思いが声となってぼくの口をついた。