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ずっと後悔している。
繋いでいた彼の手を、はなしてしまった事じゃない。
あの夏の日。
前を歩くあの人の背中。名前を呼ぶ。彼が振り向く。そして。

・.



私の言葉に、その人は足を止めた。そして振り返る。
いつも口元に浮かんでいた微笑みを消して、神乃木先輩は私をじっと見つめた。
初めて見た余裕のない彼の表情が嬉しい反面、自分の言ったことがものすごく
おかしかったような気がしてきて、私の心拍数は一気に上がった。

「すまねぇ、よく聞こえなかった。何て言った?」
「…………いえ、あの……いや、やっぱいいです」

彼の問い掛けに首を振る。
聞こえてなかった事にほっとしたようながっかりしたような複雑な気分だ。
気が付かれないように小さくため息をこぼし、歩き出そうと足を動かした時。

「手を繋ぎてぇのか?」
「聞こえてるじゃないですか!」

耳元でそう囁かれて、顔が一瞬で赤くなる。
思わず睨むと、神乃木先輩はいつものかっこつけた顔でにやりと笑った。
声を張り上げた私の手を何気なくとり、再び歩き始める。
何か言おうとしたけれどその言葉も思い浮かばずに、私は手を引っ張られたまま
彼の後を追いかけることとなってしまった。

この人はいつもこうだ。
何があっても動じないで、何もかもを見透かしたような言動で人を惑わす。
二人の距離がいつの間にか縮み、軽く唇が触れ合ってしまったあの瞬間でさえ…先輩は笑っていた。
キスをすることも、そっと抱き合うことも。全てが彼の予想していたことのようで。
ものすごく動揺する私を見つめ、ひとりコーヒーを啜っていた。

……でも、私は知っている。
彼が深い怒りを表すとき、その細められた目に激しい光が宿ることを。

それはもう半年も前のこと。あの肌寒い季節はとうに過ぎ去り、そして今では夏も終わりかけている。
私たちは今、裁判所に向かっていた。けれどもそれは、法廷に立つためではない。
神乃木先輩の胸には、小さく光る弁護士バッジ。でも私の胸には何も付いていない。
半年前の初法廷。あの日から、私は裁判所に足を踏み入れていなかった。

違う、できなかったんだ。

自分の言葉が、人の命を奪ってしまったこと。
私がぶつけたあの言葉たちが、彼を死に追いやってしまったこと。
あの時の悲しみ、悔しさ、絶望感。それは今でも忘れることができない。
進むにつれ、私は気分が重くなるのを止めることができなかった。

「そんな顔するな、コネコちゃん。まるで迷子の子供を連れてる気分になってきたぜ」
「……迷子のコネコちゃんですか、私は」
「クッ…うまいこと言うな」

暗い気分のまま神乃木先輩にそう返すと、彼は喉をならして笑う。
私は顔を俯かせて、深いため息をついた。
でも確かに、今の私は何もできない。迷子になったのも同然だ。
事務所に通ってはいたものの、法廷に立つこともできず、バッジを胸につけることもできずに。

「オレはおまわりさんじゃなくて弁護士だけどな」

その言葉と同時に握られていた手のひらにぎゅっと力を込められて、私は顔を上げた。
神乃木先輩は前を向いたままだったけど、その口元に浮かぶ笑みにどこかほっとする。
そうだ。私は、一人じゃない。
この人が手を引いていてくれるから。一緒に戦ってくれるこの人がいるから。
手から伝わってくる温もりに、口が緩んだ。この半年間、すぐ隣りにいてくれたこの温もり。
私も手に力を込め、彼の手を握り返した。ありがとうと言うかわりに。

・.



視線の先に、建物が見え始めた。半年振りに見る裁判所だ。
私の身体が一瞬で強張ってしまう。
あの建物の中で、私は罪を犯してしまった。

───指を差し、必死に探し出した真実は何だった?
───守るべきだったあの人を、死に追いやったのは誰だった?

足が止まる。手を繋いだままの神乃木先輩の足も、私と一緒に止まった。

「神乃木先輩」

それ以上、何も言えなかった。
まるで子供みたいに、彼の手を握り締め動けなくなってしまった。

怖い。
このままじゃ、何もならないことはよくわかっている。
自分であの女に会って、決着をつけなければならないのに。
正義と真実を突きつけなければならないのに。
わかっている。でも。

足が動かない。怖い。

「………チヒロ」

いつもは呼ばれない、下の名前を呼ばれ私は顔を上げた。
神乃木先輩は手を握り締めたまま、 私を見つめていた。

「トイレならもう少し我慢しな」
「は?」

思いもよらない言葉に、声が裏返ってしまった。

「コーヒーをおごってやってもいいが、腹の調子がさらに悪くなるかもしれねぇしな」
「お腹なんて痛くありませんけど…」
「コネコちゃんは帰りな。…後はオレがケリをつけてやる」

そう言って彼は一瞬だけ、微笑みを消す。そして首を動かし、遠くの建物を一瞥した。
───裁判所の中にいるだろう、私たちの敵を見透かすように。
先輩、と返したつもりだったけど声が出なかった。かわりに溢れそうになった涙を必死にこらえる。

「……ごめんなさい」
「まだわからねえのか?今はまだ、泣くときじゃねえ」
「わかってます!」

きっと睨みつけ、そう怒鳴り返すと神乃木先輩は笑った。

「クッ…その調子だぜ、コネコちゃん」

彼の手の力が緩んだ。そのことに気をとられ、瞬きをしたその時。
はなれた手がふわりと頭の後ろに回され、強く引き寄せられる。
驚く間もなく、彼の唇が私の額にそっと触れた。

「神乃木先輩!!」

思わず力いっぱい、その身体を突き飛ばしてしまった。
真っ赤になって肩で息をする私を見ても、先輩はまったく動じていないようだった。
目が合うと、ニヤリと笑う。

「いい加減、呼んでくれねえか…荘龍、ってな」

ここで私が首を横に振っても、彼は聞き入れてくれないだろう。
でもこのまま流されてしまうのが悔しくて、私は背の高い彼を睨みつける。

「わかりました……でも…全てが終わったときに、ですよ?」
「約束だぜ、コネコちゃん」

私の出した条件に、神乃木先輩は満足げに頷く。
そして微笑んだ。 いつもの余裕の笑みじゃなくて、優しく、穏やかに。

そうして彼は一人、裁判所の中へと消えていった。

私は手のひらに残る汗と彼の体温を、逃さないようにをきつく握り締める。
そしてしばらく、その場に立って彼のことを想っていた。
愛しさと、ほんの少しの不安を胸に抱えて。









ずっと後悔している。

繋いでいた彼の手をはなしてしまった事じゃない。
一度手を繋いでしまったら、いつかは絶対はなさなくてはならない。
はなれる悲しみを知るくらいなら、最初から繋がなければよかった。
あの温もりを、知らないまま生きていればよかった。

あの夏の日。
前を歩くあの人の背中。名前を呼ぶ。彼が振り向く。

言わなければよかったのに。
あの一言を。あんな、わがままを。




───先輩。手を、繋いでもいいですか?




●   
・.

 
















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弱り気味・甘えたな若千尋さん。
ちゃんと付き合い始める前にあの事件が起こってしまったという妄想です。
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