呼び出され、目を開くとそこには彼がいた。
7年前、私の初法廷にともに立ってくれた人。そして、私を優しく抱いてくれた人。
髪の色は変わっていて、顔の大部分はゴーグルで隠されていて。
「……チヒロ」
でも、変わっていない。
私を呼ぶ低い声も、あごを少しだけ上げて微かに笑う、その仕草も。
「神乃木さん…」
私も彼の名を呼んだ。
その瞬間。苦しいような悲しいような、痛みがこの胸を襲った。
・.
奇妙な感覚だった。
数年間、彼には会っていなかった。一度病院に行っただけで、それからは先は知らない。
振り返ることも立ち止まることも苦しくて苦しくて、私は彼を死んだものだと必死に
思いこんだ。そうでもしなければ、やりきれなかったから───
私は真宵の姿を借りて、27歳の容姿を保っている。
彼の目に、私はどのように映っているのだろう。
「神乃木さん」
私は口を開き、沈黙を破った。この再会を、早く終わらせなくては。
「真宵を助けてくれて、ありがとう」
「クッ…前にも言ったろ?俺は俺のために行動した。おじょうちゃんのためじゃない。
それに、俺は犯罪者だ…」
「ええ…それでも。母と決めたことなのでしょう?あなたは約束を守ったにすぎないわ」
真宵を守るため、母は命を落とした。
結果としては悲しいものだけれど、伯母たちの計画は失敗した。
それは彼の協力があったからこそだ。
「相変わらず甘いな、コネコちゃんは…親の敵と、怨んだらどうだ?」
「ふふ…コネコちゃんだなんて。もうそんな歳じゃないわ」
相変わらず気障なことばかり言う彼に、笑いがこぼれる。
肩を揺らして微笑んだ後、目の前の彼と目が合った。変わっていない、はずなのに。
彼は色を失い、視力を失い。そして私は、命を失い…
痛いくらいの沈黙が、私たちを包む。しばらくした後、神乃木さんは静かに言った。
「チヒロ…会うには、どこに行ったらいい?」
「───倉院の里よ。あなたは行った事ないだろうけど」
私は唇の端を上げ、答えた。
わざとだった。彼が聞きたいのは、そういう事を言っているのではない。
けれども私は、知っててわざと違う答えを彼に返した。
「クッ…おじょうちゃんの感傷が移っちまったようだな」
私の言葉に、彼は自嘲の笑みをこぼした。
会える場所なんて、この世にはもうない。
私の身体は3年前に灰になり、今はただ骨が残っているだけだ。
こうして向き合っていても、それはかりそめのもの。
これは真宵の身体で、私はもうこの世にいない。
それがわかっていたから、私は彼に会おうとはしなかった。
自分の身体を使ってくれと言ってくれた真宵の気持ちは嬉しいけれど…
視線を泳がし、彼に戻すと。彼は真っ直ぐに私を見つめていた。
そして、皮肉めいた様子で唇を歪ませる。
「俺はアンタの母親を殺した…俺を憎めばいい。憎んで、追い詰めて…責めればいい」
「………できないわ」
「憎んでくれ!コナカと同じように…俺を」
首を振り、拒否した私に神乃木さんは声を荒げた。
「チヒロ…だから」
───行かないでくれ。
そして俯いたまま、吐き出すように言った。
握り締めていた拳が、微かに震えている。
「神乃木さん」
私は静かに彼を呼んだ。
頬に感じるのは、温かい涙。 彼は顔を上げ、涙を流す私を見つめた。
「……涙を流していいのは、すべてが終わったときでしたよね?」
それは初めての挫折の時に、彼がくれた言葉。
私はその言葉を胸に、走ってきた。あなたとともに事件を追っていた時も、あなたを失った後も。
───たった一人で走って、そのまま命を落とした。
私はこの世を去り、その遺志をなるほどくんが継いでくれた。彼が幕を引いてくれた。
私を憎んでいたあの女も、今はもうこの世にいない。
「あなたが眠っている間に、すべてが終わってしまったのよ」
だから泣くの。
もう全部終わってるの。
あなたと会っても、もう何もならないの。
もう、何もできないの。
「…みっともねぇ。振られた女にしがみつくなんてよ。どうしようもねぇ男だな、俺は」
深く息を吐いた後、神乃木さんはそう言って表情を緩めた。
「…俺の目が覚めるまで待てなかったのか?」
「待てなかったわ。私はそんな女じゃないもの」
「クッ……違いねえ」
私は涙を流したまま、微笑んだ。
「……会えて嬉しかったわ。じゃあ、……」
また、という言葉を寸前で飲み込んだ。次なんてあり得ないのだ。
私はとても小さな声で最後の言葉を付け足した。
───永遠の、別れの言葉を。
「あなたの顔を見せて」
私の言葉に、彼は一瞬だけ躊躇した。顔を俯かせ、ゆっくりとゴーグルに手を掛けた。
現れた彼の素顔に、胸が張り裂けそうになる。
「見えねえ…何も」
「……私の顔も?」
「ああ…見えねえんだ。チヒロ…まだそこにいるのか?」
「いるわ」
見た目には何も変わっていないのに、私を見つめるその瞳は何も写していないようだった。
彼の右手が、何かを求めるように空にさまよう。
そして私に向けた。けれどもそれは透明な壁に阻まれてしまう。
手のひらを壁に当て、神乃木さんは苦しげに一言呟いた。チヒロ、と。
私も手を伸ばし、彼の手のひらに自分のものを重ねた。
触れられないとわかっていても。
さらり、と髪が頬を撫でる。腰を上げると座っていた古い椅子が微かな音を立てた。
彼の名前を呼んで、自分の元へと導く。
透明の板の向こう側の、彼がゆっくりと近付いてきた。
そして私は目を閉じる。
こんなことをしても、二人の距離は縮まらないとわかっていても。
もう二度と、彼の唇には触れないとわかっていても。
「神乃木さん…」
閉じていた目から、涙がまた溢れたのが感じられた。
目を開けると、ぼやけた視界に神乃木さんがいた。私の大切な、人が。
でも、手を伸ばしても届かない。どんなに欲しがっても、もう遅い。遠すぎる。
「最後にもう一度呼んで」
私は二人を阻む壁に手をついて、震える声でねだる。
昔のように私を優しく呼ぶ彼の声を。
「チヒロ」
神乃木さんも手を伸ばしていた。
届かない、私へと。そして低い声で呟いた。
私の名前を。
「チヒロ…」
それが最後の言葉だった。
私は真宵に身体を返した。
その瞬間、自分の意識は空に溶けた。
流した涙だけを、真宵の頬に残して。
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