top> 思い出さない

 


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罰だと思ったの。
私が足を止めてしまったことへの、罰。





8月27日 午後5時10分 星影法律事務所


「先生!」

ばん、と激しい音を立てて扉が開く。部屋の中にいた人物は顔を上げ驚く。
しかし相手が私だと気付き、一瞬だけ表情を緩めた。

「わ、私、いま聞いて…」
「千尋くん。落ち着くんじゃ」

星影先生は椅子から立ち上がると、私の肩に手のひらを置いた。

「か、神乃木センパイ…は…?」
「………千尋くん」
「教えてください!先生!神乃木さんは、どうなったんですか!?」

私は理性を失っていた。知らせを受けた携帯電話を握り締め、首を振って星影先生に詰め寄る。
そんな私の様子に困惑しつつも、先生は顔をゆがめたまま何も言ってはくれなかった。
私はついに我慢できず、崩れ落ちるように床へとへたり込んだ。
それでも、携帯電話はきつく握り締めたまま。

「先生………!!」



視界に映るのは、白い扉。
私はただぼんやりとそれを見つめていた。ただ、それが開くのを待っていた。
手に握り締めている冷たい感触の携帯電話だけが、かろうじて私と現実の世界を繋ぎとめていた。

「千尋くん」

隣に座る、先生の声も遠すぎて。
私はただ待っていた。
目の前の扉が開くのを。あの人が私の名前を呼ぶことを。



お母さんが失踪してから、弁護士になるまで。
私は一度も立ち止まったことがなかった。里を出て、弁護士を目指し、ひとりで生活して。
立ち止まる暇なんてなかった。そんな暇があったら、早く弁護士になってお母さんを助け出したかった。
全部を知りたかった。お母さんが消えた理由を、知らないままでいたくなかった。

……でも半年前。初めて法廷に立ったあの日。
私は初めて、つまづいてしまった。

真実を追い求めることが、どうして人を追い詰めてしまうのだろう。
私があの人に言った言葉も、あの人が私に答えた言葉も、何一つ間違ってなんかいなかったのに。
それとも嘘をつくことが、人を救うことになるの?
私の言ったことは間違っていたの?
私がしたかったことは、間違っているの?
私は間違っているの?

───チヒロ。

その時、私を救ってくれたのが彼だった。



「どうして…」

耳に届いた呟きに現実に戻され、私は顔を上げた。
星影先生は正面にある扉を睨みつけたまま、呟く。

「神乃木くんともあろう男が、こんなことに…」

彼は弁護士としてとても優秀で、すべてが私の目標だった。
事務所の中でも彼は一目を置かれる存在で、先生の信頼を最も受けていた。

「嫌な予感はしていたんじゃ…」
「…え?」

私は先生の言葉に首を傾げた。先生はその私の様子に驚き、一瞬だけ目を見開いた。
そしてゆっくりと言葉を続ける。

「君たちがあの被告を追ってることは知っておった。事件の概要に目を通しただけじゃったが…
あの被告はかなり頭が切れる。事件をいまだ追う君たちを、邪魔に思ってたことは間違いないじゃろう。
君たちが彼女をそのままにしておくことを許さないと同じように、彼女もまた君たちを放っておくはずがない」

私はあのときの裁判を思い出した。笑顔で人を欺く、あの悪魔のような女。 

「裁判所内とはいえ…不用意に被告を呼び出して二人きりで会うなんて」
「私、全然気がつきませんでした…」

その言葉に、星影先生は意外そうな顔をする。でも私は、本当に気がつかなかった。
言われてみれば、あの被告が黙って私たちを見逃すわけがない。
今更そのことに気がついて、私は愕然とした。

「!」

その時、ガチャリと音をたてて目の前の扉が開いた。
医者と看護士が数名、神妙な顔で出てくる。人と、ドアに阻まれて部屋の中は見えない。
私は身体を動かして懸命に隙間を探し出し、彼の姿を探した。
でも彼は見えなかった。見えたのは、見慣れた大きなあの人の手だけ。

────!)
「千尋くん……!」

私はもう、耐え切れなかった。先生の制止する声を無視して、その場から逃げ出した。



一人、自分の部屋に戻りしゃがみこむ。
激しく脈打つ、心臓が痛い。痛くて痛くて、張り裂けそうだった。

「………さん」

無意識に彼の名前が唇からこぼれる。こんな時、いつも側にいてくれた人。
そして同時に、さっき見た彼の手を思い出した。

もう、動かない手。

「いや…!」

両手で頭を抱え、私はきつく目をつぶった。
あの裁判の後、私は彼の手を知った。大きな手で私を抱きしめてくれる手。
ただ、守られているだけでよかった。
その手に包まれる時、すべてを忘れることができた。立ち止まることができた。
でも、その結果。

───ごめんなさい」

溢れかけた涙を、私は必死にこらえた。その代わりに謝罪の言葉が落ちた。

(私が歩くのをやめてしまったから)
(だからあの人は、あんなことになってしまったの)

ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
気づけなくてごめんなさい。私が決着をつけるべきだったのに。
巻き込んでしまってごめんなさい。 頼ってしまってごめんなさい。
ごめんなさい。───そして。

「さよなら……」

その一言はとても弱くて、日が落ちかけた部屋の中に解けて消えてしまいそうなものだった。
でも、それはまぎれもなく私の口から零れた言葉。

───さようなら、神乃木さん。

私はあなたと今ここで別れます。もう、想うことはない。
振り返ることもしないでしょう。

もう決して立ち止まらない。
思い出さない。








4月10日 午後 4時30分 留置所 面会室

私は目を閉じ、その時が来るを待っていた。
胸を飾るのは汚れひとつない弁護士バッジ。私は一年ぶりに法廷に立とうとしていた。
私がこの事を決意したのは、ついさっきのこと。
突然の申し出に最初、星影先生は聞き入れてくれなかった。自分でも無茶だと思った。
でも、この事件の書類を見て…決めた。このままあきらめるわけにはいかなかった。

───落ち着くのよ、千尋)

息を吐いて目を開く。そして私は手渡された事件の書類をまた最初から目を通し始めた。
緊張からか、何度読んでもその内容は頭に入ってこない。
───被告と、その恋人の名前以外は。
その時、扉が開き警官に連れられて被告人が私の前に姿を現した。
私と、胸に着けたバッジに気がつき、私の正面に立つ。私も慌てて腰を上げた。
目が合うと、彼は大きなマスクをつけたままぺこりと頭を下げる。

「弁護士さんですよね!よろしくお願いします!」
「綾里千尋です。こちらこそお願いします。あの…早速ですが」

ばさばさと書類をめくり、メモを取り出す。私のその様子を、彼は大きな目で見つめていた。

「ええと、名前は…なるほど…」
「あ、なるほどう、です!」
「成歩堂………龍一、さん?」
「ハイ!成歩堂龍一です!」

私の言葉に、その男の子は無邪気に頷き笑った。 私は曖昧な笑みを返し、再び書類に視線を落とした。
そして、人差し指で紙をなぞる。彼を思い出す、この一文字を。
震えそうになる手を押さえ、何度も何度も。祈るように、そっとなぞる。

絶対、助ける。
あの人と同じ名前を持つこの子を、絶対助けてみせる。

あなたを思い出すのは、もうこれで最後。
この裁判が終わったら、思い出さない。
もう二度と、思い出さないから。

そして、もう二度と足を止めない。
私は私の目的を果たすまで。

 

●   
・.

 

















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千尋さんが彼氏いた素振りを全く見せなかったのは、理由があると思ったのです。
過去を振り返るより、前を見る努力をしたから強くなれたんじゃないかな。
感情を全部押し込めて、目的に向かって歩いていたから強い女性だったのだと思います。
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