外の温度は知らないけれど、窓を通して入ってくる光はとても暖かい。
カタンカタンと一定の間隔で緩やかに身体に伝わってくる振動。右側には柔らかい感触。
日に透けた茶色い髪がさらさらとぼくの肩の上で揺れていた。
鼻先には香水なんだろうか、ほのかに甘い匂いが届いてきて思わず頬が緩んだ。
(───至福の時って、こういうことを言うんだろうなぁ)
24年間生きてきて、ぼくは初めてこの言葉の意味を知ったような気がした。
ふぅ、と息を吐き出すと肩が下がり、身体のバランスがわずかに傾いてしまった。
ぼくは慌てて背筋を伸ばす。
そして、なるべく身体を動かさないよう注意しながら、 こっそりと横目で隣の様子をうかがった。
「………………」
視線にまったく気付く様子もなく、ぼくの肩に寄りかかる千尋さんは目を閉じたままだった。
平日の電車は乗ってる人も少なく、時間の流れもとてもゆっくりなような気がした。
でもぼくたちがこうして電車に乗っているのは、別に遊びに行くというわけじゃない。
ある事件の調査のため、現場に向かっている途中だ。
これがなかなかややこしい事件で、最近の千尋さんは睡眠時間を削って走り回っていた。
電車に乗った直後、千尋さんはぼくに意気揚々と事件のあらましを語ってきてぼくの方が眠くなったんだけど…
乗る時間が長くなるにつれて、千尋さんの口数は少なくなっていった。
そして最終的には、隣に座るぼくの肩に身を任せたまま眠りの世界へと入ってしまったのだった。
ふと気付くと、千尋さんの手から重たそうなバッグが落ちそうになっている。
どうしようかとしばらく考え込んだ後、そっと手を伸ばした。
千尋さんの眠りを妨げるものを全て排除しようとしたのだ。
「!」
その時、ガタンと車内が揺れた。
千尋さんの身体がぐらりと揺らいだのを見て、ぼくは一瞬で頭が真っ白になってしまった。
とっさに身体を張って彼女の傾いた頭を支える。
「……………危なかった」
息をついて小声で呟く。───いや、しかし。
千尋さんはそれでも目を覚ますことなく、すやすやと眠っている。
ぼくの青いスーツに頬を寄せ、幸せそうに目を閉じて。
相当疲れが溜まっているんだろう。
冷や汗のようなものが、顔からにじみ出るのを自分でも感じた。
眠り続ける彼女の位置は今までにないくらい近いもので。
起こさないように腕にそっと力を込めると、憧れの彼女の身体が何の迷いもなくぼくの腕の中に収まった。
(こ、この体勢は………)
嬉しいけど、嬉しいけど。……嬉しいけど。
彼女の様子を視線だけ動かして窺う。視界に彼女の豊かな胸が飛び込んできて、思わず目を瞠る。
自分の容姿を武器にするのも、ひとつの手よ?と、笑っていた千尋さんを思い出した。
確かにその顔のつくりと豊かな胸は、彼女たち女性にとっては十分な武器になるだろう。
それは間違いなくぼくたち男に対してもっとも威力を発揮するもので。
(落ち着け、落ち着くんだ…!)
さっきまで暖かくて優しいと感じていた春の日差しが、まるで真夏のものに変わった
かのようにぼくの背中をじりじりと差す。 汗がだらだらと背中を流れ落ちるのがわかった。
そんなぼくの様子に全く気付くことなく、千尋さんはいまだ夢の世界を旅しているようだ。
ぼくの両腕に抱かれる格好のまま。
(こ、ここで彼女の目が覚めたら……?)
少し考え込んだ後、ぼくは小さく首を振った。考えるだけでも恐ろしい。
まるで菩薩のような表情で眠りに落ちているけど、一度目を開いたらとんでもなく恐ろしい上司だ。
いやいや、表情は特に変わらないんだけど。
この優しい笑顔のまま非情な台詞を吐き出して、ぼくを絶望のどん底に突き落とすという
世にも恐ろしい技を持っている…
「…………くん?」
高速で考えを巡らせていたぼくの耳に、微かな声が届いた。
ぼくはその状況が理解できずに視線をゆっくりと動かした。
彼女の柔らかそうな身体が、相変わらず間近に存在している。その姿を春の柔らかい日光が照らしていた。
露出した白い肌から視線をまた移動させる。すると彼女の丸い瞳がぼくをじっと見つめていた。
大きくて、見つめた人を吸い込んでしまいそうな。
澄んでいる目ってよく聞くけど、きっとそれを具体的に、そして見事に再現したのがこの瞳だとぼくは思った。
見惚れるほどに豊かな身体の上に乗っている顔も、とても綺麗に整ったもので。
───まるで春の女神のような人だ。
「なるほどくん」
彼女の柔らかい声が、ぼくの名前を呼ぶ。ぼくの腕に抱かれたままで。
何度もぼくを呼ぶ。このぼくを。
……ぼくを、呼ぶ?
「なるほどくん!」
はっとぼくは我に返った。と、同時に汗が全身に噴出す。
彼女の瞳は、いまだにぼくを見つめたままだった。
でもその上に存在するふたつの眉は、これ以上ないくらいに歪んでいた。 ……不快そうに、不審そうに。
ぼくは腕を動かして、千尋さんの身体を解放しようとした。
しかし数分間、身体を不自然な格好に固定していたせいなのだろうか。
それとも、過度の緊張をしたせいなのだろうか。意思に反して両腕はぴくりとも動かなかった。
……彼女を離したくない、という無意識の願望が腕を押しとどめていたのかもしれない。
「なるほどくん」
彼女の声がワントーン低くなった。この声色は知っている。
いつも穏やかに微笑む彼女が、本気で腹を立てた時。笑顔を引っ込めてぼくを叱り付ける時の声だ。
心臓が警告音のように大きく鳴り響いてるのが自分でもわかった。
それでもぼくの腕はぴくりとも動かなかった。
彼女はそんなぼくを、綺麗に澄んだ目でじっと見つめる。
千尋さんはぼくの腕の中に抱かれたまま、ぼくは彼女をしっかりと抱きしめたまま。
二人は春の電車の中で数分間見つめ合っていた。
「なるほどくん……」
ゆらり、と彼女の姿が揺れた気がした。春の日差しが見せた蜃気楼なのかもしれない。
茶色くて細い髪を日に透かして千尋さんは綺麗に微笑む。それは確かに美しい笑顔だったのに。
ぼくの目にはとても恐ろしいものに映ったのだ。
表情の裏に隠された静かな怒りを目の当たりにし、ぼくの頭はさらに真っ白になってしまった。
と、その時。
ぼんやりとしたぼくの頭に、あるひとつの言葉が閃いた。
それはぼくが彼女に教わった言葉で。覚えておくように、と念押しされた大切な言葉。
それを実践するのは今だ。今しかない。
正面から目を合わせると、千尋さんはまたにこりと微笑んだ。
そしてその完璧すぎて怖いくらいの笑顔のまま、ぼくにこう質問した。
「なるほどくん。どうしてこんなことになっているのか、説明してくれないかしら?」
凄味をきかせた彼女の言葉に、ぼくは何も答えなかった。
そのかわりに引きつった笑みを顔中に貼り付け、間近に迫る千尋さんに向ける。
───ピンチのときほど、ふてぶてしく笑いなさい。
そう教えてくれたのは他でもない千尋さんだ。
師匠の言葉を忠実に従い、実践したぼくの笑顔に千尋さんの表情から全てのものが消えた。
……数秒後に綺麗な彼女の顔に表れたのは、見たことのないくらい深い眉間のしわ。
その時になってようやくぼくは、自分のした事が見事に逆効果だったことに気が付いた。
「な・る・ほ・ど・く〜ん?」
わざとらしくぼくの名前を切って呼ぶと、千尋さんは顔面に笑顔を復活させた。
女神のような、美しく崇高な笑顔を。
その後の事を、ぼくは今でも思い出したくない。
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もしいつかぼくにも部下ができ、新人を指導する時が来たのならば。
彼女から教わった大切な言葉に、一言付け加えることを忘れてはならない。
弁護士はピンチのときほどふてぶてしく笑え。
でもその前に。
時と場合を自分でよく考えること、と。
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