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「いつも、この時間帯なんですね」

月光の中、囁くようになるほどくんが言った。私は微笑み、腕を組む。

「裁判が終わった後だからね…いつも遅くまで、ご苦労さま」

私の言葉になるほどくんは少し照れたような表情で首を振る。
事務所にいる人影は二人だけ。真宵の意識はなくなり、かわりに私が肉体を支配している。
暗闇の中、私たちは向かい合い座っていた。それでも視線は合わせないまま。

「今日の尋問…またハッタリを言ってたわね。感心するわ、あなたには」
「あなたに教わったんですよ、千尋さん」

静かな声で名前を呼ばれ、どきりとする。私はまつ毛をふせて俯く。
なるほどくんの視線を頬に感じながら。

(見ないで───そんなに、見ないで)

一度でも、一秒でも、目が合うことが怖い。きっとそうなってしまったら…
このまま、夜の空気に負けてしまう。理性が感情で飛んでしまう。
俯いたままの私は、彼の指が動いたことに気付くのが遅れてしまった。

「!」

いつのまにか影が私に近付いていた。
顔を上げたときには、席を立ったなるほどくんが目の前にまで迫ってきていた。
私は恐怖を感じ、慌てて席を立つ。
よろけた腕をなるほどくんに支えられ、そのまま冷えた壁に押し付けられてしまった。

「なるほどくん?」

私は彼の顔を見ることもできず、非難の意を込めて名前を呼ぶ。
それでもなるほどくんの手は止まらなかった。ゆっくりと近付くその指。

「……触れるんだ」

なるほどくんはぽつりと呟いた。私の髪を一房、その手にとって。

「…どういう意味?」
「幽霊だから、もしかして触れないのかと思って」

睨むように視線をぶつけると、彼はへらりと頬を緩めて言った。

「ちゃんと触れるんですね」

私が瞬きをする短い間を縫って、彼が近づいてきた。そして、私に触れようとする。
髪に。頬に。唇に。

「ちょっと…!」

慌てて肩を叩く。なるほどくんと私の身体にわずかな距離が生まれ、私はそのまま逃れようと
身体を動かす。しかし、行く手は彼の腕に阻まれてしまった。

「なるほどくん!」

思わず頭に血が上る。大きな声で彼の名前を呼んだ。

「 …やめなさい」

私は彼の上司だ。そして彼は私の部下である。命令のつもりで告げて、じっと彼を見た。
以前の彼だったら、そこでやめるはず。手を、止めるはずだった。

「やめません」

なぜか笑いながら、なるほどくんはそう返した。

「もう、あなたの命令は聞きません」

なるほどくんは、私の髪を握った拳を壁に押さえつけた。そして身体全体で威圧される。
追い詰められる格好となって、私は息を詰めて彼を見つめた。

「ぼくはいつも、守ってきたでしょう?あなたに言われたことを」

法廷で時々見た、不敵な笑みを浮かべてなるほどくんは言う。
感情をその笑顔の裏に押し込めて。

「あなたが隠すから、コナカのことも知らない振りをしていた。
ぼくに関係ないと言われれば、それ以上の詮索はしなかった」

ご主人様の言いつけを守る、犬みたいでしょう?と言ってなるほどくんは首を傾げた。
右手で、私の髪をいじりながら。

「ぼくはあなたに嫌われたくなかったから」

私にはある目的があった。それは叶うことなく、私は命を落とすこととなったのだけれど…
彼は私が隠していたことを知りたがっていた。 ……本当は、知っていた。
知ってて無視した。
それは彼に踏み込んでほしくなかったから。

「でも、あなたの言いつけを守ってきた結果がこれです。
あなたはいなくなってしまった。何も言わずに、たった一人で」

────ぼくに残ったのは、後悔だけ。

なるほどくんの頬に張り付いている笑みが、怖い。

「ぼくはもう、あなたの言いつけは守らない。これ以上無くすものはないから…」

彼の表情から全てが消えた。
そして次の瞬間。二人の距離を全てなくそうと、彼が一歩を踏み出した。

「!!やめて、なるほどくん!」

とっさに上げた悲鳴は、涙が混じる。こんな言い方では彼は止められない。
それは自分でもわかっていた。
頭ではわかっているのに、身体が動かない。私は彼を望んでいる。欲しがっている。
───でも。

(これは真宵の…)

私はもう死んでしまった。これは私の身体ではない。
そして、まだ生きている彼に私を教えてはならない。私という感触を。

「お願い、やめて」

拘束されているのは、彼の手に握られた髪だけ。逃げようと思えばいつでも逃げれる。
それでも、私は動けなかった。壁に背中をつけたまま、俯く。

「お願い」

自分でも情けなるくらい、声が震えた。
彼は何も言わなかった。何も言わずに…でも私を離さずに。

「なるほどくん」

私は沈黙に耐え切れず、目を閉じた。そして、祈るような気持ちで彼の名を呼んだ。
ふと、空気が動く。私は唇を噛む。

(お願い……)

私は何を祈るのだろう。

本当は、触れてほしい。私に触って、抱きしめてほしい。

でも、それはしてはいけない。してほしくない。

矛盾する二つの心に、私はただ情けなく震えることしかできなかった。
耳に届くのは、息遣い。私のものと、彼のものと。
しばらくして頬に微かに触れるもの。それはなるほどくんの吐く息。

でもそれはすぐに離れた。

「千尋さん…」

私は目を開いた。力強く握られていた髪が、解放される。
彼はゆっくりと身体を傾け、両膝を床についた。
私の目の前に膝まづく格好になり、私は微かに息を呑む。

「ぼくはあなたに、触りません。あなたがそう言うのなら……何もしませんから」

そして震えた声で、言った。

「あなたの言うこと、全て守りますから」

もう一度、ぼくを誉めてください。あなたの声で。あなたの言葉で。あなただけの唇で。
……すべて、あなただけで。

「千尋さんの言うこと、何でも聞きますから」

言葉とともに顔を上げる。そうしてやっと、私たちの視線は合った。
彼の瞳の色は悲しくなるくらい暗い。逸らそうとしても逸らせなかった。

「もう一度…ぼくを」

そこまで言って、なるほどくんは言葉を詰まらせた。
私はその場を動くことも、何かを言うこともできずに、ただ彼の前に立ち尽くしていた。

死んだ私をいつまでも欲しがる彼を、突き放す勇気があったらいいのに。
前みたいに命令したらいいのに。早く、永遠の別れを告げたらいいのに。

頭の中で、声が響く。

わかっている。私はもう、ここに来てはならないことを。
彼のためを思うのならば、もう会わない方がいいということを。
手を伸ばせばそこに、彼がいる。
すぐそこにあるのに、その距離は途方もなく遠いもの。

なるほどくんを見つめたまま、私は祈った。さっきとはまるで正反対の願いを。
身勝手な願いだと思いながらも。
叶うことのない願いだと知りながらも。


愛してると言える唇があればいいのに。
目の前で泣く彼を抱きしめる腕があればいいのに。


私だけの、身体があればいいのに。



●   
・.

 

 

















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なるほどくんは恐怖のツッコミ男ですが、踏み込めない場所もあって。
それが千尋さんなんだと思います。
いつ一線を越してもいいような感じですが、でもそれはどうしてもできない。
なるほどくん、生殺し状態。
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