私は、あなたを。
・.
「ねぇ、聞いてるの?なるほどくん」
問いかけても返事はない。私は書類から目を離し、正面に座っている彼を伺った。
そこにはジャケットを脱ぎネクタイを緩め、それでもその髪は尖らせたままの なるほどくんが座っている。
片手で頬を押さえ、今にも机に突っ伏すような格好で目を閉じていた。
「しょうがないわね…」
ふ、と笑い混じりのため息をこぼし、私は書類を机に置く。
午前1時。
彼が居眠りをしてしまうのもしょうがない時間だ。
ただでさえ、裁判を担当している時は忙しく、睡眠時間が少ない。
裁判を終えた今日は、ゆっくりと休みたいのだろう。
いつからか私はこうして、裁判最終日の夜に真宵の身体を借りて事務所に 訪れるようになっていた。
弟子であるなるほどくんのはじめての公判が終わった一ヶ月後に、私は命を落とした。
それから彼は様々な事件を担当し、たくさんの人を無罪に導いてきた。
無罪を勝ち取った裁判の数は、今では私の経歴に追いつくほどになったけれど。
(…まだまだね、なるほどくん)
いつのまにかなるほどくんは両腕に顔を乗せ、本格的に眠りに落ちていた。
法廷では鋭く光る瞳が、今は固く閉じられている。
目を閉じた彼はいつもより幼く見えて、私は思わず笑みをこぼした。
そして同時に今日の裁判を思い出す。汗をかいたり、大きく口を開けて驚いたり…
実力はあるのに、なぜかなるほどくんの裁判はいつだって綱渡りをしているみたいだった。
(全く、目が離せないんだから…)
いくら彼が成長しても、私にとって彼は弟子であり、また彼にとっても私は師匠のままだった。
なるほどくんが、私を呼んでくれる。求めてくれる。
───命を落とし、もう前に歩けなくなってしまった私を。
それは、彼にとっては為にならないこと。
それに答えてしまえば、彼はまた 立ち止まってしまうのだろう。でも、私は。私はそれでも。
「……ごめんね、なるほどくん」
小さく呟くと、彼はぴくりとまぶたを動かした。
私は彼のその髪に手を伸ばそうとして……やめる。
顔を俯かせると長い髪が頬を撫でた。
そう、これは私の身体ではないのだから。
私は目を閉じ、意識を飛ばした。そして彼の元から離れた。
愛さないの、愛せないの。
私は、あなたを。
■
「千尋さん」
その夜は珍しく、彼は睡魔を打ち負かしていた。しっかりとした声で私を呼ぶ。
私は身体になじんだソファに座り、首をかしげてなるほどくんを振り返った。
「知ってますか…?今日で、ぼくが無罪を勝ち取った数。あなたに並びました」
「よかったわね。言ったでしょう?あなたは天才だって」
「買いかぶりすぎですよ、千尋さん」
楽しげに笑うなるほどくんが眩しくて、私は目を逸らした。
20代で事務所を構え、夭折した女性弁護士…私の名は今でも、法曹界に知れ渡っている。
それは特に誇らしいことでもなかった───むしろ、苦々しいことだった。
目の前にいる彼は、きっともっと名を知られることになるのだろう。
私は過去の人間。彼は未来の人間。
(私は彼に嫉妬しているの…?)
今も生きている、彼を。
なるほどくんは私を見つめていた瞳を逸らした。そして窓の外を見る。
いつのまにか闇は遠くに追いやられ、空が明るくなり始めている。
「…眩しい」
目を細め、彼は呟く。遠い空に広がる明日を、その目に映しながら。
「なるほどくん。私、もう…」
別離を予感させた私の言葉に、なるほどくんは顔をこちらに向けた。 そして何かを言いたげに私を見る。
さよなら、と言うのが一番いいのだろう。でも、私の口から出てきたのは違う言葉だった。
「……またね」
夜が明けていく。消えかける夜に私は目を閉じた。揺らぐ私の意識。
「千尋さん」
最後に見えた、なるほどくんの顔はとても悲しいものだった。
そうして私はまた、彼を苦しめてしまった。
次を予感させる言葉がなるほどくんをどんなに苦しめているのか…… すぎるくらいに、わかっているのに。
戻る私を引き止めてしまわないよう、自分を抑えているなるほどくんがとても愛しいのに。
愛さないの、愛せないの。
あなたは、私を。
■
「お願いします!所長!」
両手を顔の前で合わせて、なるほどくんは叫んだ。私はため息をわざと大きくついて、頷く。
「しょうがないわね…見せてごらんなさい」
「はい!お願いします!」
ビシッと突き出すように渡された書類を受け取り、私はソファに座ると目を通し始める。
その隣に腰掛けたなるほどくんが、書類を指で差し示しながら説明しだした。
裁判を明日に控えた今日、珍しくなるほどくんから私を呼び出した。
証拠品を集め、依頼人と面会を重ね…彼なりに走り回ってなんとか真実にたどり着いた。
けれども、どうも自信がないらしい。 裁判前に一度まとめたものに目を通してほしい、と泣きつかれたのだ。
:
:
きれいにまとめられた書類を、彼の言葉に頷きつつ読み進めていく。
「なるほどね……」
息を吐き出しながら呟き、ソファにもたれかる。内心、私は感心していた。
彼の用意した証拠品・証人は特に穴も見つからない。狩魔検事や御剣検事ならともかく、並の検事が相手なら
数十分で無罪を勝ち取ることができるだろう。
(これで自信ないなんて…謙遜かしら?)
いつの間にそんな生意気なことを覚えたの、と叱ろうと隣を振り返る。
「なるほどくん?」
しかし彼は目を閉じたまま動かない。どうやら眠りの世界に行ってしまったようだ。
がくりとうなだれたまま静止していた。 ここまでまとめるのにかなり苦労したんだろう。
よく見ると目の下が真っ黒になっている。 私は微笑み、書類に再び視線を戻す。
「………」
しばらくすると、ももの上に温かい体温。そして無遠慮な重み。
「………なるほどくん」
「ううん………」
眉をしかめつつ、目の前の書類を除ける。
視線を落とすと、私のももを枕にして気持ちよさそうに目を閉じているなるほどくんがいた。
足をどかそうにも、ここまでのしかかられていると動くに動けない。
それに幸せそうに眠る彼を無理にどかすようなことも出来なかった。
(───仕方ないわね)
起こさないようにため息をつき、彼の額に触れる。
「頑張ったごほうびよ?明日からまた忙しいんだから」
とがった髪は意外にも柔らかいことを、今更ながら知った。額に置いた手のひらで、ゆっくりと髪を撫でる。
彼は穏やかな呼吸を吐き出しながら、ずっと目を閉じたままだった。
(私がいなくなって、もう随分たつものね)
こうして眠る彼の顔は、自分から見ればまだ頼りない弟子のものから何一つ変わっていない。
しかし今読んだ書類を作れるようになった今の彼は、もう新人弁護士とはいえないだろう。
なるほどくんは1年1年、年を重ねてきた。開いていた年齢差は、気がつけばもう2年にも満たない。
もうすぐ私の年を越してしまうのだろう。
弁護の依頼も増え、真宵とともに時間を重ねて成長していく。
「千尋さん…」
夢うつつのまま、なるほどくんは私の名前を呼んだ。思わず口が緩む。
「ずっとこうしていてくださいね」
「……なるほどくん」
その言葉は私を動けなくさせた。
ずっと───ずっと?私はいつまで、彼の前を歩いていられるの?
彼が私の年を越えるまで?彼が一人前の弁護士になるまで?
(ずっとだなんて、もう……)
私は目を閉じる。そして涙が零れ落ちる前に、持ち主に身体を返すことにした。
それでも私はまた、彼に会いに来てしまうのだろう。彼に呼ばれ、私も彼を求めて。
こうして私たちは、不毛な逢瀬を重ねてしまうのだろう。何度も、何度でも。
想いは会う度に大きく成長し、いつしか抑え切れなくなる。
あなたを愛しく大切に思う気持ちはもう、誤魔化しようもないのに。
愛さないの、愛せないの。
私は、あなたを。
───私はすでに、死んでしまっているのだから。
●
・.
|