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某月 某日 午後7時 成歩堂法律事務所


現場を巡り、留置所と警察署を何度も往復し、裁判所で検事にいびられて…
ぼくの苦労の甲斐もあって、依頼人は無実となった。
やっとのことで事務所に戻ってきたぼくは、深々とため息をつく。

「ああ、疲れたー」

ソファーに沈み込むように座ると、ひょこりと横の方から除く人影。 目が合うとにこにこっと微笑む少女。

「おかえりー!なるほどくん」
「ごめんね、遅くなって」
「いいよいいよ。まだ電車あるし。そのかわり駅まで送ってね!」
「ハイハイ」

両手を胸の前で組み合わせて、真宵ちゃんは笑う。 彼女が笑うと、ついついぼくまで微笑んでしまう。
助手となってもらってから、色々な雑用をしてくれている。
いつも片付いた事務所に帰ってこれるのは、彼女のおかげだ。

「あ、真宵ちゃん、コーヒー入れて」

キッチンへと引っ込んだ背中に、声を掛ける。
ネクタイを緩め、新聞を読み始めようとしたその時……

「うちの妹をこき使っているようね」
「うわわわわわわ!!!」

突然、頭の上から第三者の声が降ってきた。驚いてぼくは数十センチ飛び上がる。
慌てて振り向くと、確かにひとつしかない人影。しかし、戻ってきた姿はすでに少女の姿ではなかった。

「失礼な態度ね、なるほどくん。久しぶり」
「ちちち千尋さん!!!!」

眉をしかめた後、表情を変えにっこりと笑う。
ぼくはしばらく声を失って驚いた後、やっとのことで気を落ち着かせて彼女の名前を呼んだ。

綾里千尋弁護士───ぼくの師匠であり、恩人であり、誰よりも大切な人。
そしてこの場所で、無情にも命を奪われた女性。

肩をすくめて笑う姿は、確かに所長のものだ。
口元のほくろも、腕を組む癖も、緩やかな曲線を描く身体も。
でも、それは彼女じゃない。彼女であって、彼女でない存在。
綾里家の女性が行うことの出来る、霊媒。真宵ちゃんの力を使って、千尋さんは今ここに立つ事ができるらしい。

「今日の裁判も、相変わらずハッタリ言ってたわね。感心するわ、その度胸」
「ハッタリって…ちゃんと考えてましたよ…」

首を傾げて笑う仕草も、生前と全く変わらない。違うのは、装束のような格好と髪型だけ。
ぼくはいきなり現れた幽霊の彼女に対して、恐怖も何も感じていないことに気がついた。

あの事件の後……結局、彼女の弔いの儀式には出席できなかった。
でも逆にその方がよかったのかもしれない。千尋さんの身体が灰になる瞬間になんて、ぼくは立ち会いたくない。
この手に残るものは、まるで氷の様に冷たくなっていく彼女の身体の温度だけで。
目の前で笑う姿は、何一つ変わっていないのに───

「本当に、死んでしまったんですか…?」

自分でも間抜けな質問だと思った。でも、どうして信じられなかった。
彼女が、もうこの世に存在しないことなんて。

「今更何を言っているのよ」

腕を組んで、少し笑う。その様子に、ぼくは言葉を失くしてしまった。
どうして。

「千尋さん。どうして、そんな風に笑えるんですか?」

溢れそうになった涙の代わりに、ぼくは言葉を吐き出した。千尋さんが驚いてぼくを見つめ返す。
一度口から落ちてしまった感情は、もう止めることができなかった。

「どうしていつも、ぼくを置いていってしまうんですか?」

ぼくは俯いたまま感情を吐き出す。

「そうやって、一人で先に進んでしまって…」
(今でもなお、あなたの死についていけないぼくがいるのに───

涙で喉が詰まった。片手で口を覆い、ぼくは言葉を止めさせる。
彼女の姿を視界からなくして、悲しみをやり過ごそうとした。
情けない。彼女の前で泣くのは、一回だけで十分だ。

「なるほどくん。あなた、何か誤解してない?」

ふと、静かな声が響いた。ぼくはその問い掛けが理解できなくて、顔を上げた。
すると、いつも口元に笑みを浮かべていた千尋さんが表情を全て無くしてぼくを見ていた。

「何をですか……?」
「何があっても動じない女だって、思ってる?」

しっかりとした口調に問い詰められ、ぼくは黙る。

「会いたい人にも会えなくなって……ただ見ていることしかできないなんて」

澄んだ目でぼくを見る。
真っ直ぐに見つめられて、ぼくは一秒たりとも逸らすことが出来なかった。

「あの日…ぼくが早くここに戻っていれば」

唇をゆっくりと動かして、ぼくは呟いた。ぼくの言葉に、千尋さんは目を閉じて首を振る。

「何でも一人でできると思ってたの…馬鹿よね」

そして、自嘲の笑みを浮かべながら一人呟く。
自分のものでない、他人の身体を両腕で抱え込みながら。

「あの夜。あなたを待っていればよかった。怖いと思ったのなら、素直にそう言えばよかった」

小中と会う決断を、彼女は一人でした。こんなにも近くにいたぼくに何も告げないで。
ぼくは内心、そのことを責めた時もあった。でもまた、彼女も悩んでいたんだ。
今、やっとわかった。

「守ってほしい……そう言えなかったのよ。どうしても」

そう呟く姿がどうしようもなく、愛しい。
どうして今になって言うんだろう?遅い。もう遅すぎるじゃないか。

「こんなこと、今更言っても困らせるだけでしょ?」

ぼくの表情から読み取ったのだろう。口元を緩ませて千尋さんは笑った。

「でも……どうしても、会いたかったのよ。あなたに」

そしてそれは、泣き笑いのような表情に変わる。
声を上げて泣いてしまえば、どんなに楽になるだろう。でも、ぼくにはそれができなかった。
悲しみが感覚を麻痺させて、切なさが身体を動かなくさせて。
こうして目の前で愛しい女性が泣いているのに……もうぼくには何もできない。

「……真宵ちゃんは、今はどうなってるんですか?」
「意識を失ってると思うわ」

髪形、格好。これは千尋さんじゃない。真宵ちゃんのもの。
わかってる……わかってる、でも。
少しだけ流れた沈黙に、ぼくは一歩踏み出す。
彼女との距離を縮めると、微かに息を呑む音が聞こえた。

「なるほどくん、駄目」

伸ばした手は、言葉だけで拒絶されてしまう。

「千尋さん」

一度名前を呼ぶと、彼女は微かに身体を揺らした。

「千尋さん……ぼくに触れられるの、嫌ですか?」

彼女が顔を横に振ると、耳に掛かっていた髪がともに揺れた。

「…………本当は、触ってほしい」

そして泣きそうな声で、そう言う。ぼくは堪らなくなって、両手で千尋さんの肩を掴んだ。
瞬間、するりと逃げる身体。

「でも、触らないで」

はっきりとした拒絶。届かない指。
手のひらに残る愛しい感触を、逃がさないようにぼくは手をきつく握り締めた。

「ごめんなさい……」

声を震わせて、彼女は謝った。ぼくは唇をかみ締める。これを緩めたら…泣いてしまう。
伸ばしたままだった手の先に、ふと何かが触れた。
彼女の長い髪。千尋さんの───そして真宵ちゃんの髪。

「……好きです、千尋さん」

呟きながら指に髪を絡ませた。でも千尋さんは逃げなかった。
流れるような黒髪をそっとすく。手のひらの中に、彼女のほんのわずかな欠片を閉じ込める。
背をかがめ、ぼくはそっと髪にキスをした。

こんなに近くにいても、ぼくたちは触れ合うことすらできない。
ただ、こうして愛の言葉を囁きあうだけ。

「……なるほどくん」
「好きなんです……千尋さんが」

目を閉じて、ぼくは告白する。

もうすぐ彼女は消え、代わりに真宵ちゃんが戻ってくる。
そしたらぼくの言葉も全て消えてしまうのだろう。
この、愛の言葉のひとかけらでもいい。 彼女の中に残ればいいのに……

そう祈りながら、ぼくは彼女の髪を握り締めていた。

「なるほどくん……ごめんね」

しばらくして、ふわりと落ちてくる呟き。
その言葉はすでに、千尋さんのものじゃなかった。
それでもぼくは、目を閉じて祈り続けた。

彼女に届くように、愛の言の葉を思い浮かべながら。

 

 

●   
・.

 

















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もうどうしようもない恋愛です。せ、切なぁ!
私はどうも、少し弱い千尋さんが好きなようです。
弱さをこっそり告白する姿にものすごく萌えるのです。
なるほどくんは21歳の時にわあああん!と盛大に泣いてますが、それはもうこの際無視で。
ナルマヨのマヨちゃんとは別の人ということで!これでなるほど君に片思いしてたら可哀想過ぎるよ。
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