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なぜここに来たのだろう。

それは自分に問いかけても、よくわからない行動だった。


今回の事件の現場、綾里事務所の前に立ち上を見上げる。
部屋の明かりは消えたままだ。 彼はまだ戻っていないのだろう。
我に返り、口をゆがめて笑う。
一体、自分はここへ何しに来たのだ。
駅へ向かおうと振り返る。すると、見慣れた人物が近くに止まった車から降りてきた。
相手の方も自分に気づき、敬礼をした。

「御剣検事、どうされたんですか?」

刑事課の刑事の一人だ。糸鋸刑事についてよく走り回っているのを見たことがある。

「いや…ちょっとな。君は捜査か何か?」
「いえ。実は成歩堂弁護士が体調を崩されたらしくて、ここまで送ってきたんです」
「成歩堂が?」

彼の乗ってきた車を覗き込むと、バックシートにぐったりと横になる彼の姿があった。
目を閉じて、苦しそうに息をしているのがわかる。

「私が送っていこう。君はもう戻りたまえ」
「え!?御剣検事!?」

ドアを開け、成歩堂の身体を引きずり出す。
意識が朦朧としているらしく、なにも言わずに、身体を私に預けてきた。

「失礼します!」

鬼検事の突然の行動に、状況が飲み込めていない刑事はとりあえずそう言うと慌てて車に乗り込んだ。
車の走り去る音を背に、彼の鞄を探り鍵を取り出す。

───どうしたというのだ、私は。

 

事務室のソファへ寝かせ、ネクタイを緩めてやる。
かなり熱が高い。肩を貸した時に触れた、彼の体温は尋常ではなかった。
タオルを探し出し、成歩堂の額の上に濡らして置くと少しは楽になったのだろうか。
表情を一瞬緩めた。

ここ、綾里法律事務所は現在、主がいない。
所長である綾里千尋はある人物の秘密を握り、殺されてしまったのだ。
第一発見者となった成歩堂は、死亡直後の綾里弁護士の姿を目の当たりにしたのだ。
そして彼女の妹、そして自分までもが被告として追い詰められた。
無罪となった今、張り詰めていた気が緩んだのだろう。

自分も椅子を見つけて腰を下ろす。このまま帰るわけにもいかないだろう。
もう少し、あと少しだけ彼が楽そうになったら…

(なるべく関わりたくないのだが)

そう思いつつ、彼の世話を焼いて。自嘲の笑みがこぼれる。

───成歩堂龍一。彼は十五年前に別れたきりの級友だ。
さまざまな運命を経て、私は検事という地位に着いた。
再会した成歩堂は、あきれるくらい以前と変わっていなかった。
しかも、弁護士として再び私の前に現れたのだ。真摯で、まっすぐな目をして。
自分が告訴されたのにもかかわらず、矛盾を突きつけ、揺さぶりを繰り返して彼は無罪を勝ち取った。

私は…初めて負けたのだ。この、素人同然の弁護士に。

それはとても屈辱的な出来事だった。
常に完璧である自分が、小学生の頃とさして変わっていないこの男に負けたのだ。

変わっていない彼と、変わりすぎた自分。

成歩堂の存在は、嫌でも自分の過去の傷に触れてくる。
あの忌まわしい事件の前の、唯一の友達。
しかし今の私にとっては、ただの敵だ。憎むべき犯罪の弁護をするなんて…

「…ん…」

微かに、成歩堂が声を発した。身体を横にしたため、額の上にあったタオルが肩に落ちた。
覗き込むと、意識はまだ戻らないようだ。赤い顔のまま、息を浅く繰り返している。
こうこうと輝く、部屋の電気が眩しいのだろうか…
電気を消し、月の明かりだけに頼ることにした。

「…………」

暗闇は、苦手だ。 狭い空間も、地震も。
どうしてだろう、あの頃の自分には怖いものなどなかったのに。
今の私は、どうしてこんなにも弱いのだろう──

成歩堂の枕元で、しばらく立ち尽くしてしまった。腰を落とし、視線と彼に近づける。

(君は……君には……)

怖いものなど、ないのだろうか?

「……う……」

また、うなされるようにして成歩堂が身をよじる。
苦しそうな顔に、不安がよぎる。 このまま寝かしておくだけで熱は下がるのだろうか。
手のひらをそっと彼の額に乗せた。

「…ん………」

その感触に気づいたのか、成歩堂の目がうっすらと開いた。顔を傾け、熱くなった手のひらで私の腕を握る。
ぎゅっと力をこめ、まるでしがみつくように。

「…………ちひろさ………」

かろうじて聞き取れる声で、彼が名前を呼んだ。
この場所で、無残に殺された女性弁護士。成歩堂の師匠でもあり、絶対的な存在。

「…真宵ちゃんも……無罪に………」

たどたどしく言葉をつむぎ、真っ黒な瞳が私を見る。
まるで水に小石を落とすように、ゆらりと黒色か動き、焦点が合っていくのがわかる。

「………………」

彼は何も言わなかった。私が誰なのか、悟ったのだろう。
身体がこわばったのが感じられた。
つき返そうとする成歩堂の腕を掴んだ。そのまま頭の上まで持ってきて、ソファに押し付けて自由を奪う。
怯えるような表情の彼に覆いかぶさり、唇を重ねた。

そっと、なだめるように優しく。

唇を離すと、月の光の中で彼のまつ毛か微かに震えているのが見えた。
拒絶するようにきつく、私の手を握っていた手がゆっくりと離れていく。
優しく触れられるのが嬉しいのだろうか?彼は、声を殺して泣いていた。

熱を持った彼の体温を、求めるように口付けを何度も落としながらふと思う。

───自分は、まだこんな風に優しく人に触れることができたのか。

彼は寂しいのだろう。そして、私もまた同じなのであろう。
これは愛情なんかではない。弱い物の同士の、傷の舐め合いみたいなものだ。

……人の温もりなんて、とうに忘れた。

(君は、私をどうしたいんだ?)

彼に直接、問い掛けるつもりはないけれど。

 

久しぶりに抱き合った人の身体はとても熱く、どこか私を懐かしくさせた。

 

●   
・.

 

















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お約束の展開ながらお気に入りのお話。
発熱→看病→夢うつつで勘違い。こんな感じで。
月も出てきたことだしね。ナイスロマンティック★
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