アイワナ

「なるほどくんってさ。ソソらないんだよねー」
 その言葉に思わず私はまじまじと隣に座る少女の顔を見つめてしまった。
 目の前のテレビに映るのはトノサマン。テーブルの上に散乱する煎餅の袋。横には頭の上で髪を結い上げ、膝を出した短い着物を身に着ける真宵くんが座っている。
 私が持参したDVDを成歩堂法律事務所のテレビで観るという簡易鑑賞会は、今までに何度か開催されている。今日は常連であり彼女の従妹である春美くんが学校の行事で来られないらしく、そして事務所の主である成歩堂も所用で外出しており、私と真宵くんの二人きりだった。
 トノサマンの新しい必殺技が今にも炸裂するかという時に突然、彼女はそんなことを呟いたのだ。テレビの中の世界に引き込まれていた私は一気に目が覚め、現実へと戻ってきた。そしてその問題発言をした彼女の顔を見つめる。
「なんかこう、グッとくるものがないっていうか」
 真宵くんはそう言いながらテーブルに手を伸ばし、個別に包装された煎餅をひとつ手に取り袋を開け、口に運ぶ。その間手元を見ることは一度もなく、視線はテレビに固定されたままだ。
 私はというと彼女に同意することも聞き返すことも、もう一度テレビに視線を戻すこともできずにいた。ただ彼女を見つめ続ける。
 男と女とはいえ、私と真宵くんの間にそのような感情はない。それは所長と助手という関係である成歩堂とも同様だと思っていたが、もしかして彼女の方では何かしら抱く思いがあるのか。
それか、私と成歩堂の仲に勘付いていて遠まわしに探りを入れてきたのか……そんなことにまで考えが及び始める。
 年齢よりも幼く見える真宵くんの口からそそるなどという単語が飛び出してくるとは思ってなかった私は激しく動揺していた。
 小柄な体型に合わせて作られている、彼女の小さな唇の中にまた新たな煎餅の欠片が吸い込まれた。指先から全て彼女の中に移動したところで、真宵くんは体勢を変えた。画面ではなく、私のいる方向へと向く。さらりと、重たさを持った黒髪が和服の肩から下方へと流れ落ちる。ねぇ、と彼女の唇が動き名前ではなく呼び掛けで私は視線を奪われる。
「──御剣検事は、ソソるよね」
『くらえ!トノサマン大根切り!』
 四角く作られた画面の中ではちょうど、トノサマンが空に飛び上がり白光と共に剣を振り下ろしたところだった。派手な効果音が鳴り響き衝撃を与える。そして。私の頭の中にも、同じように。
 ……もしかして私は口説かれているのだろうか。
 そんな考えが瞬時に閃き、と同時に動揺する。
 私には成歩堂という存在がいる。自分の全てを掛けていると言っても過言ではないくらいに大切な、愛おしい存在。真宵くんは彼にとっても近しい人間だ。そして私ともこうして付き合いがある。もし真宵くんが私に何らかの感情を持っているとしたら……そんな彼女の思いを無下に拒絶することなどできるのだろうか。いやしかし。
 真宵くんは身体をこちらに向けたまま口を閉ざし、私の出方を窺っている。私はこの時ほど自分の仏頂面に感謝したことはない。もしも成歩堂ほど表情に感情が出やすい人間ならば、この時の激しい動揺も全て彼女に読み取られていたに違いないからだ。
 しかし、いくら考えても答えは出てこない。成歩堂、早く帰ってきてくれ──と、祈る気持ちで目を逸らしかけた時。痺れを切らしたのか真宵くんが動いた。
「もう!ちゃんと答えてください!」
 ぷくりと頬を膨らませ私に詰め寄る。その様子はいつもの彼女の、少々幼くも見える怒りの仕草だ。やはり彼女は恋愛対象には成り得ない。そんな残酷なことを私は改めて認識した。真宵くんは膨らませた頬を元に戻すと、腕を組み何やら考察を始めた。
「御剣検事はいつもお土産持ってきてくれるし、トノサマン見せてくれるし、あんましゃべんないけど優しいし。でもなるほどくんはほんとダメなんですよねー」
 ここでもう一度成歩堂の名が出てくるとは思わなかった。意味がわからず、無言で見つめ返していると真宵くんがそれに気付き、また詰め寄ってきた。少し探るような目つきで。
「この前ね、見ちゃったんです。御剣検事、裁判所で女の人にお菓子もらってませんでしたか?なるほどくんに聞いたら、アイツはモテるからなぁって。全然ダメでしょ?なるほどくんがもっとソソる弁護士だったらこの事務所にもいっぱいお菓子もらえるのに!」
 彼女の発言が終わる頃には、私はすっかり脱力していてやはり無言を返すしかなかった。しかし無言の理由は先程とは明らかに異なる。
 確かに、先日公判終了後に被害者の家族からお菓子をいただいた。贈答物を受け取ることは禁止されているが、安価なものだったので押し切られるままいただいてしまったのだが……それを彼女らに見られていたのか。
 いやしかし今はそんなことはどうでもいい。
 トノサマンのDVDはいつの間にか終わり、エンドロールが流れている。真宵くんはそれよりも成歩堂がソソるかどうかの方が問題らしく、おとなしく私の返答を待っていた。
 彼女の発言をまとめることで、私の中のロジックが働き答えを導き出す。先程まであんなに思い悩んでいたことが悔やまれる、極めて馬鹿馬鹿しい答えが。
 だがそう言えば怒らせるだけだろう。私は言葉を選びつつ、どこか不満げな顔をしている彼女に語りかける。
「その、君は『そそる』という言葉を間違って使っているようなのだが」
「ええっ」
 大げさに驚いた真宵くんは前屈みになり、小さな手のひらを唇の横に当てた。私に向けて少し声を落として囁く。
「モテるとか、そういう意味じゃないんですか?」
「うム……」
 何て言っていいものかと悩んでいると、突然トノサマンのテーマが鳴り響いた。テレビで聴いていたものとは音質が全く異なっている。それは、携帯電話の着信を知らせるために作られた音を簡易化したものだった。
「はい、もしもし?」
 真宵くんが袂からピンク色の携帯電話を取り出して片耳に当てた。彼女のラフな口調から相手は何となく察しがつく。彼女は電話の向こうの声に頷くことを何回か繰り返し、簡単な受け答えだけで通話を終わらせた。そして私を振り返る。
「なるほどくん、今から帰ってくるみたいです」
 やはり、成歩堂からの連絡だった。真宵くんはテーブルの上を片付け始める。私は一応客であるから座ったまま、彼女の行動を目に移しつつ考えていた。
 ──成歩堂が、そそらない?
 私と彼は人知れず思いを交し合う仲だ。互いに大人であるから、もちろん肉体関係もある。私が成歩堂を抱き、成歩堂は私に抱かれる。二人で役割の相談をしたことはなかった。が、思い返せば一番最初からずっとそうだった。
 仕事を終えた私が成歩堂を事務所まで迎えに行き、食事に行く。そんな何てことのない日常の出来事の狭間に突然、その時はやってきた。今日は何食べに行く?と私の横に腰を下ろし、ネクタイを緩め成歩堂は笑う。それに答えようとして、ふと視線を向けた彼の唇に私は釘付けになってしまった。少しかさついたそれは女性のように艶があって桃色に染まっていたわけではない。床を踏む足は青色の布に完全に包まれており、こちらを誘うように肌色が覗いているわけでもない。彼の上半身には胸の膨らみを予感させる曲線もなく、その代わりに男性の証である喉仏が存在している。
 それなのに、私は──強烈な欲を感じたのだ。
 法廷では生意気に動く唇に。白いシャツの合わさりの下にある素肌に。香水などつけているはずもない、それなのにほのかに香る彼自身の匂いに。暴いて触れて口付て、全てを自分のものにしたくなった。
 人のいない事務所に二人きりという日常と背合わせの背徳感も手伝ってか、興奮した私はあっさりと理性を失った。欲望のまま彼をソファに押し倒したのだ。成歩堂は驚いて抵抗したが、私の劣情を乗せた口付けを受け止める内にそっと四肢の力を抜いた。
 そこから行為を終えるまでのことを、よくは覚えてない。きっと夢中だったのだろう。本当に初めてした時以上に緊張していた。御剣、と聞いたことのない艶を帯びた成歩堂の声が、耳元でずっと舞っている。ただそれだけを……怖いくらいに鮮明に覚えている。
 あの時の私は確かに成歩堂に性欲を掻き立てられたのだ。ほとんど同じ身体を持つ男に。行為の最中も、行為後も、そして今でも。私は不思議でならなかった。どこからどう見ても男性の成歩堂に、何故私は欲情したのか。
 真宵くんは成歩堂を見てそそらないという。彼女は本来の言葉の意味を知らなかったが、本当の意味を教えても多分こう答えるだろう。成歩堂龍一はそそらない、と。
 私の疑問はますます深まった。とはいえ他の人物が彼を見て自分と同様に理性を飛ばしてしまったら、それはそれで困るのだが。
「なるほどくん!」
 真宵くんの狼狽した声に、自分もつられてそちらを見る。成歩堂が転がる勢いで事務所の扉を開け中に入ってきたのだ。真宵くんが慌てたのもわかる。彼が手にしている青いスーツのジャケットは更に深く青く色を染め、彼自身の意思を象徴しているかのように後方へと尖る髪も、心なしか垂れ下がっている。
「これ被ってきたけどあまり意味なかったな」
「うわーびっしょびしょ!すごく重たいよこれ」
 手渡されたジャケットに真宵くんは驚きの声を上げた。成歩堂から彼女の手の中に移動したいつものジャケットは、雨を多量に吸っていて確かに重そうだ。考えに耽っていて気付かなかったが、いつの間にか部屋の外の世界には雨が降り始めていたらしい。窓の外を見ればどんよりと曇った雨雲が空を支配していた。
「替えのワイシャツあったっけ?」
「所長室のクローゼットにあるよ。タオル置いておくね。あったかいお茶淹れようか?」
「うん、お願い」
 まるで長年連れ添った夫婦のような会話を自然とする二人を傍観者として観察する私に、ようやく成歩堂の視線が向けられた。
「あれ御剣。来てたの」
「うム」
 ここまで綺麗に無視されて、不愉快にならないわけがない。言葉少なに答えた私を成歩堂は不思議そうに見つめる。真宵くんにソソらない、全然ダメとこき下ろされてきたことなど全く知らずに雨の中走り回ってきた彼に少々罪悪感と憐れみを覚えた私は、こちらからも無言の視線を与えた。それぞれの思考を持つ視線が合わさった瞬間。
「そうだ!前に見た千尋さんの法廷記録に似たような事件があったんだ!」
 そう言って、これまたぐっしょりと濡れた黒い鞄を抱え込む。慌てたのは私の方だ。
「先に髪を拭きたまえ!風邪を引くだろう」
「わかってるよ。えーと、確かこっちに……」
 言われたとおりに髪をタオルで拭くものの、彼の意識は全く別の方向へと向けられている。半ば呆れながらも私は所長室に入る成歩堂の後を追っていた。
 ホテルの見える窓際に大きなデスクを備えた所長室は、降り出した雨を落とす暗い雲のせいか薄暗い。成歩堂は電気もつけずに壁際に置いてある書棚の前に立ち、何かを探している。私は他の部屋からの明かりを室内にもたらすために扉を半分だけ開けたまま、彼の背後へと歩み寄った。
「この辺にあるはずなんだけど」
 成歩堂は振り向きもせずに、きちんと同じ高さに揃えられたファイルの中の一冊を手に取るとぱらぱらとめくり始めた。
 私も彼も無言になり、透明のガラスに激しい雨粒が無数に当たる音だけが響く。
 休日でもない真昼の法律事務所がこんなに静かでいいのだろうか。ふとそう思い、所長である彼に気付かれないよう溜息を零した。以前、冗談交じりに成歩堂から家賃を払ってくれと言われたことがある。そんなにこの事務所は流行っていないのだろうか──そんなことを思っていると、先程までいた部屋から電話のベルが鳴り響いた。所長室にある電話も同時に点滅した後、すぐに沈黙する。真宵くんが取ったのだろう。ほっとしたのもつかの間、何故だか笑い声が小さく聞こえてきて脱力した。この事務所によく電話を掛けてくるという春美くんからのようだ。
 思わず、溜息を先程よりも深くして吐き出していた。
 成歩堂は優秀な弁護士だ。天才検事と謳われている私以上に、その閃きは天才的だろう。本人に直接言ってやるつもりはないが。
 何度も奇跡の逆転劇を見せてきた成歩堂龍一弁護士。その評判を聞かない日はない。しかし、こうして事務所に閑古鳥が鳴くのは成歩堂が弁護に対して持つ信念が影響している。成歩堂はあえて追い詰められている被告人を弁護するのだ。しかも彼が無罪だと信じ抜いた人間だけを弁護する。有罪を無罪にひっくり返す、その評判だけを聞きつき依頼してくる人間を断り続けるという、他の弁護士とは異なるスタンスのために敬遠されているところもあるのかもしれない。
 そのくせ、一度請け負った事件はいくら報酬が安くとも全力で取り組む。労力も時間も費やすことを全く惜しまないのだ。これでは事務所が儲かるはずもない。
 だがしかし、そんな彼だからこそ法廷で迎えうつ私も手を抜かない。一番やり応えのある、そして達成感を与える法廷は成歩堂龍一弁護士が相手の時だけだ。
 いまだファイルをめくりこちらに背を向けている男の頭脳に、一体どんな推論が描かれているのか。私のロジックでは到底思いつかないそれに焦がれた。そして、今彼が持っている事件を担当する他の検事に嫉妬した。成歩堂の立つ法廷にはすべて私が担当できればいいなどと、不可能なことを考える。
 彼の存在はこんなに私の心を掴んで離さないというのに。そそらない?そんな馬鹿なことがあるものか。
 ──カチリと。自分の中の有りもしないスイッチが切り替わったように感じた。
 電気をつけていないせいか、部屋は薄暗い。そもそも成歩堂は私に背中を向けているから彼の表情は全く見えない。だが、見えないからこそ視覚以外の神経が研ぎ澄まされていく。
 乾いた紙がめくれる音。触れているのは成歩堂の人差し指だろうか。中指だろうか。ふっと短い息が漏れる。溜息には成り得なかったほどに小さく微かな吐息。私の耳を直に掠る。
 敏感になるのは聴覚だけではない。嗅覚もだ。
 雨に濡れたという彼が放つ香りは普段とは少し異なっている気がした。肌が瑞々しさを湛え、その上を滑り落ちる水滴が彼の汗の匂いと溶け始めている。それは、最中の部屋に充満する卑猥な空気と似ていた。
 私の思惑に全く気が付かない成歩堂の背中を、いや、頭の先から靴の先までを見た。捕食者が被捕食者を見る目で。
 私は、成歩堂が側にいるといつもこうだ。彼の何もかもが欲しくて、奪いたくなってしまう。このままこの部屋に閉じ込めてやろうか……そんな考えすら浮かんできてしまうほどに。
 見つめる内に、彼の剥きだしのうなじに水滴が落ちた。音もなく。思わずそれを舌先で拭ってしまった。
「!」
 ふいに詰められた距離に、そして触れた舌に驚いて成歩堂が振り返る。しかし完全に私の方を見ることはできない。私の両腕が彼の脇にまわり、無防備だった成歩堂の身体を抱き締めたからだ。
「御剣、なに」
 雨で冷えていたはずの身体は、熱かった。湿った白いシャツ越しに存在する体温。密着する私の体温と触れ、流れ、混じり、二人に溶けていく。
 腕は勝手に動き、布の上から小さな突起物を探し出す。見つけたと同時に乱暴に擦った。それだけの刺激を繰り返すだけで硬く立ち上がっていくそれを摘まみ、親指と人差し指を使って捻り上げた。
「…っ、何して…!」
 甘い痛みに疎んだ彼の身体をさらに抱き締め、襟の隙間から尖らせた舌を侵入させた。少し塩辛いような首の後ろの皮膚を味わう。上唇と下唇で柔らかく挟んで、きつく吸い上げる。
 そのたびに律儀に反応を返す成歩堂に罰を与えるようにして何度も甘噛みを繰り返した。次第に熱を帯びていくのがわかる。彼の身体も、私の身体も。
 顔の角度を変えつつ成歩堂のうなじを食みながら、ちらりとデスクの上にある電話機を見た。通話中であることを示す赤いランプは消えていない。
 そのタイミングを見計らったかのように、成歩堂が上擦り、どこか泣きそうにも聞こえる弱々しい声で私を止める。
「やめろ馬鹿……真宵ちゃんが、…来る…」
 しかし、止まらない。
 成歩堂の、私を引き剥がそうとしていた腕が動きを変えた。今まで大事そうに持っていたファイルを近くのデスクに雑に置いた後。赤い布に包まれた私の腕を力強く握る。
 半開きの扉の影に隠れ息を潜めるようにして。薄闇に溶ける二人の吐息を混じり合わせながら。
 私たちは、互いの体温を感じ合っていた。






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