top> ハローグッバイ

 


______________________________________________________________________________

 

「君はぼくに負けたことを認めるわけだね」

彼の唐突な言葉に、私はすぐに返事をすることができなかった。
隣りに腰掛ける成歩堂をまじまじと見つめる。
成歩堂は私たちの間にあるトランクを靴の先で軽くつきつつ、顔を俯かせていた。

「……いつ、私が君に負けたのだ?」
「そうやって勝ち負けに執着すること自体負けてるって言ってるんだよ、御剣」

穏やかとは言えない口調で成歩堂はそう言い切ると、顔を上げた。そして私を見る。
私は眉を寄せて彼の視線を受け止めた。

「やぶからぼうに負けだと言われて、納得する馬鹿はいないだろう」
「そう?ぼくは別に負けてもいいんだよ」

会話になっているようでなっていない。
私は彼から視線を外し、ガラスの向こう側に広がる空へと移した。窓と呼ぶには大きすぎる、広い空間。
そこを白い飛行機が何機も通り過ぎていく。
視界の隅で、成歩堂が動いたのがわかった。彼もまた私から視線を外したようだった。
そして、小さな声で呟く。

「実際、ぼくは負けてしまったわけだしね」

そう言われてやっと、彼の意図する事がわかった気がした。
成歩堂が無罪を勝ち取れなかった裁判──依頼人・王都楼真悟は有罪となった。
その時、検事席に立っていたのは私だ。弁護士の成歩堂は敗訴し、検事である私は勝訴した。

「……君は真実を導き出した。それでも、自分は負けたというのか?」
「君たちの真似をしただけだよ。ぼくは弁護士だから、無罪を勝ち取れなかったら
負けということになる。そうだろ?」
「それはそうだが」

言い返したい言葉はたくさんあったが、それはうまく形にならなかった。
私は唇を結んで背を椅子に預けた。そしてゆっくりと長い息を吐き出す。

勝ち負けにこだわる裁判に疑問を抱き、法廷を離れたのは約一年前のことだ。
以前の私と今の私では全く違う。
諸外国の裁判を傍聴して初めて、私は検事としての在り方を 自分なりに掴むことができた。 しかし。
それはまだ不完全なものだったと帰国して思い知ったのだ。やはり私はまだまだ未熟なのだ、と。
検事として再び法廷に立ち、弁護士と向き合うことで思い知らされた。
私の自信を見事に打ち砕いた男は、どこかふてくされている様な表情で空を上っていく飛行機を
じっと睨みつけていた。

「君の言う『完璧な勝利』は、国内では実現できないって認めたんだろ?」

先程より口調を三割ほど弱くして成歩堂は呟いた。隣に座る私をどこか小馬鹿にしたような様子で。
口を挟もうと、息を吸い込んだ。

「だから海外に行くんだろ?……負けを認めたようなものじゃないか」

さらに口調を弱くしてぽつりと付け加えられた彼の言葉に、私は黙り込んでしまった。
───どうやら謎が解けたようだ。
私と彼との関係も、以前とは全く違うものになっている。
失踪という裏切りを受け激怒していた彼と、ともに法廷で向き合うことによって生まれた信頼。
そしてそれを越えた先に芽生えた感情。

(昨晩の行為は失敗だったかもしれないな)

表情には出さずに私は心の内で苦笑した。
出国前に訪れた、彼の事務所で。
しばらく会えないという事実が私の心を急かしたのか、彼の警戒を解いたのか。
いや、きっと両方だったのだろう。
……別離の前の性行為など、感傷を助長させるだけだというのに。

「狩魔検事もアメリカで活躍してたしね。海外生活ってそんなに魅力的なもの?」

そう言って成歩堂は顔を上げた。黒い瞳を私に向け、昨日の夜に散々触れ合わせた唇を歪ませて笑う。
私たちは弱音や本音を明かし慰めあう関係でもないし、お互いを束縛する権利もない。
それがわかっているからこそ彼は私の外国行きを引き止めようとはしないし、私もそれを止めようとはしない。
もしも、私が彼の立場だとしても同じことをするのだろう。
前に進もうとする相手の手を握り、永遠に側に置くことなど私も彼も望んでいない。

「ぼくも暇と資金があったら、海外で勉学に励むんだけどね」
「ただ単に、日本語しか話せないと言ったらどうだ」

先程の弱い口調を全く感じさせないで成歩堂は軽口を叩き始めた。
私も不意に湧き上がった寂しさを打ち消すように彼の会話に乗る。
すると成歩堂は尖った眉を眉間に寄せて、人差し指を私の鼻先に突きつけた。

「そんなことは言ってないだろ。ここは日本なんだから、日本語以外を話す必要がない。
だから外国語を話していないだけなんだよ。それとも何、ぼくが日本語しか話せない証拠でもあるの?」

畳み掛けるようにそう聞かれ、私は一瞬だけ言葉に詰まる。
そんな私の反応に満足したのか、 成歩堂は寄せていた眉を元に戻して満足げに笑った。

「……ただの負け惜しみに聞こえるが」
「気のせいだろ」
「Vous dites le mensonge!」
「え?なんだって?」
「言葉の通りだ」

きょとんとする成歩堂を無視して私は口を開いた。
どうやら外国語を話せるというのもお得意のハッタリだったようだ。
確かめずとも、そんなことはわかってはいたが。
丸い目を向ける彼に愛しさを感じた私は唇を緩めた。そして、新たな言葉を唇に乗せる。
彼にひた隠しにしている自らの願いを。
プライドも何もかもを捨て去った本音を、異国の言葉に変えて。

「……Je veux vous prendre ensemble」

───本当は、君を連れて行きたい。

気がつくと成歩堂は、顔に浮かんでいた笑みを消しまっすぐに私を見つめ返していた。
黒く静かな瞳に捕らえられ私は一瞬、言葉を忘れた。
その目をこちらに向けたまま彼が口を開く。

「いいよ」
「!!」

彼の短い答えに瞬時に顔が赤く染まる。思わぬ反応に腰を浮かしてしまった。

「貴様…!今のフランス語を理解していたのか…!?」
「え?何そんなに慌ててるの?」

片手を口元を押さえ動揺する私を見上げ、成歩堂は首を傾げた。
その反応に私の心拍数はさらに上がる。
成歩堂はしばらく私の様子をじっと見つめた後、へらりと顔を緩めた。

「いや、ここはハッタリをかます雰囲気だと思って。変なことでも言ったの?」
「な…!!」

怒りと動揺と恥ずかしさが一気に身体中を駆け巡り、絶句してしまった。
原因を作った張本人は不思議そうな顔で私の様子を観察している。
悔しさに崩れ落ちそうになる身体を支え、成歩堂を睨みつけた。

「貴様のようにハッタリばかりを言う弁護士など、世界中のどこにもいないだろうな」
「それは誉め言葉として受け取ってもいいのかな…」

うめく様に告げた私に成歩堂が苦笑したその時、ロビーにアナウンスが流れた。
私の乗る飛行機の、最終の搭乗案内を告げる声が。
私たちはほぼ同時にお互いに向けていた視線をはずした。
ソファに沈ませた身体を持ち上げるのを、ほんの少しだけ躊躇した後。
無言で立ち上がる。そして、私を見上げた彼の瞳に一度だけ小さく頷く。

───いつも君といたい。側にいたい。離れたくない。

けれどもそれは口にしない。
私たちは検事と弁護士なのだから。恋人である前にライバルなのだから。

遅れて立ち上がった成歩堂が、間に置いてあったトランクを右手で押した。そしてにっと笑う。

「自信がついたら帰ってこいよ。気長に待っててやるから」

答える代わりに私は笑みを返した。彼と同じような挑戦的な笑みを。
一歩踏み出し、彼との距離を詰めた。成歩堂の瞳の端にわずかだが動揺が表れる。
間近に彼の呼吸を感じて、言い様のない痛みと切なさが胸を襲った。
右手を、彼に触れさせるために動かした。
静かに私を見返す彼に向けて。

「笑っていられるのも今のうちだ。…覚悟することだな、成歩堂龍一」

しかし、私は彼に触れなかった。言いたい言葉を全て飲み込み、そう宣言しただけだった。
成歩堂はその言葉に一度だけ頷くと、私の行き場のなくした手のひらに指を触れさせた。
指先から手のひら。重なり合う彼の手と私の手。
温かい、そして愛しい彼の体温が伝わってきた。 そのままぎゅっと力が込められる。
私たちは口付けを交わさずに、握手を交わした。
お互いに触れ合える、とても近い距離にいながら。
成歩堂は張り詰めていた瞳を緩めて穏やかに微笑んだ。私もつられて笑みをこぼす。

覚えておくのはお互いの体温ではない。向き合う瞳に生まれる、強い光だけでいい。

「では、失礼する」
「ああ」

短い挨拶の後、私は彼の手を離した。
そのまま背を向ければよかったものの、私は我慢できずにある言葉を彼に対して呟いてしまった。
最後の最後にとても小さな声で。───すまない、という謝罪の言葉を。
私の言葉に成歩堂は、俯いて目を逸らした後。
何で謝るの、と微かに笑いながら答えた。

「構わないよ」

その言葉とともに顔を上げると、大きくニ三度首を振る。
君はいつだってぼくの前を歩いていく男なんだからさ。
そう言って成歩堂はまた笑った。

そして、私から離れた手を空に持ち上げて大きく振った。

 

●   
・.

 

















______________________________________________________________________________
2終了後、3以前のお話。
作中でミタンは「貴様は嘘つきだ!」と申してます。
日本語→英語→フランス語と翻訳しまくったので正確でなかったらごめんなさい。
ミツとナルの関係はこんな感じがいいと思います。これでもラブラブ。

________________________________________________________________________________________________________________________________________________________________________________________________________________________________
top> ハローグッバイ