「待った!」
その一言に私はぴたりと動きを止める。
成歩堂は彼の言いつけをきちんとそれを守った私を誉めることすらせず、不機嫌そうに眉を歪めた。
私は一歩後ろに引き、掴んでいた彼の腕を解放した。腰に回していた手もそれと同時に離れる。肘、腰、胸……自分の身体の、私の手が触れていた部分をじろじろと観察した後。成歩堂は呆れた表情で呟いた。
「ああもう、シワになったじゃないか……クリーニング代だって馬鹿にならないんだぞ」
よく見ると、彼の身体を包む青いスーツの表面上にはっきりとした細い線が数本浮き出ていた。きっと私が先ほど、彼を強引に抱き寄せ口付けをした時に出来上がったものだろう。
原因がわかったとしても今の私には関係のないことだ。そんなことよりも中断された行為の続きを───
「シワになりやすいスーツを着てるからではないか」
「嫌味な奴だな」
もう一度腰に回そうとした右手は何のためらいもなく叩き落とされてしまった。
「スーツを着ている人間に手を出してくるからだろ。しかもここ仕事場だし。もう少し考えろよ」
叩かれた痛みに顔をしかめ、叩いた相手を睨み付けた。けれどもその相手は詫びる様子もなく、おまけに言葉の最後に説教まで付け加えた。
「………」
私はぐっと押し黙る。不本意なこの状況。このまま捕まえて押し倒してやろうか。
しかし私は何もしなかった。私の思考を読んだのか、成歩堂の最高に冷たい視線が次の一手を阻んだのだ。
成歩堂はふいと私から視線をはずすと足を動かして自分のデスクにつく。彼の視線が私でなくデスクの上に置かれた書類へと落とされ、ようやく私は沈黙を解いた。
「……君は私を拒絶」
「してないよ。してないから」
言い終えないうちに否定された。しかし彼の視線は完全に書類に落とされたままだ。何とも投げやりな。
納得できないと思いつつも私は、わざとらしくため息をついて彼に背を向ける。そしてソファーにどっかりと腰を下ろすと手元にあった新聞へと手を伸ばした。
───だいたい。成歩堂は素っ気なさすぎるのだ。
文字が整列した紙面を目下に広げつつも私は心の中で彼に対する不満をあげつらえる。
何も私だって、聞く言葉全てを疑っているわけではない。しかし、彼の態度と言動を見ていれば不安になるのも仕方がないことだと思う。私が彼を所構わず欲しがるのはその反動と言ってもいい。性急に、思いの丈を全てぶつけるような性行為はお互いの体力をひどく消耗させるだけで、なるべく避けるようにはしているのだが。かと言って逆に丁寧にゆっくり抱けばしつこいと言って殴られる……
(……いっそのこと、私が彼に抱かれようか)
いやいやいや、と彼から移った口癖でそれを否定する。一人、思いを巡らせているうちに数分が過ぎた。
「御剣」
ふいに遠くから呼び掛けられ、私は意識を現実へと浮上させた。振り向こうとして寸前で耐える。邪険にされたという怒りがこの胸にくすぶり続けているのだ。誰が答えてなどやるものか。
「ごめん、さっきはちょっと忙しくてさ。もうちょっとで終わるから、あと少しだけ待っててくれるか?」
成歩堂の声。まるで猫なで声のような。
そういう風に聞こえるのはきっと、私が一方的に機嫌を損ねているからだろう。私は波のない平面的な口調で彼にこう返す。
「構わないでくれ。君にとって私は、邪魔な存在でしかないのだろうからな」
口調に影響を与えることは避けることができた。が、そのままの感情で言葉を作りすぎた。しまったと口を噤んですぐに。
「何だよ、拗ねてるのか?」
あっさりと自分の心理状態を指摘され、怒りはさらに過熱した。呆れを含んだ成歩堂の声に短く返す。
「拗ねてなどいない」
「拗ねてるだろ」
「拗ねていないと言っているだろう。私に構わず、君は一人大好きな仕事を続けたまえ」
「みつるぎ〜ごめんって。邪魔なんて思ってないよ、ちゃんと君のこと大事に思ってるから」
「では、その証拠でもあるのか。口では何とでも言えるからな」
繰り広げられる会話が何ともくだらなくて情けなく、まるで自分が小学生に戻ったような気がしてくる。しかし引っ込みが付かない。猛る心が落ち着いてくれない。
私は息を吸い込むと、上唇と下唇をぴたりと合わせる。そして固く口を閉じた。これ以上不用意な発言を繰り返して自分を貶める必要はない。黙秘という便利な言葉は今使わずしていつ使うのか。
黙ったまま視線を手元に固定し続ける私の元にある音が届いた。どうやら成歩堂が椅子から立ち上がったようだった。一歩ずつ近付いてくる足音。そして小さな音とともに身を置くソファーが軋んだ。
成歩堂は私の隣に腰を掛け、とんとんと肩を叩く。私の名前を呼びながら。
「御剣御剣」
不本意ながらも振り返る。ゆっくりと、いつもより数倍の時間をかけて。
私の顔がやっと自分の方に向けられたことを確認すると、成歩堂は右手を持ち上げ自分の胸元を指差した。その意図がわからず、わずかに眉をしかめた私に成歩堂は能天気な笑いを返してきた。
「……何なのだ」
「わからない?」
そう言って成歩堂はもう一度自分の胸を指す。指の動きにつられ視線を動かした後。私はふとあることに気がついて口を閉じる。
彼の指差すものは金色の小さなバッジ。今の彼の立場を明らかにするもの。
「君のためにぼくはこうなったんだよ」
さらりと告げられ、一瞬何が言いたいのかよくわからなかった。成歩堂は少しも言いよどむことなく、はっきりとした声でこう告げる。
「邪魔なんて思うわけないだろ。それどころか今のぼくは全身で君への愛を表してると思わない?」
黒い瞳と、笑みと、青い布にぽつんと光る金色のバッジと。
最後にストレートすぎる愛の告白を付け加えられて私は完全に言葉を失ってしまった。次に、深く感心する。さすが成歩堂だ。全てをひっくり返すような証拠品を私の鼻先に見事に突き付ける。今の彼を形作る原因は全て私にあると。真っ直ぐ過ぎる愛の告白を成歩堂は私に与え、にっこり笑う。
平常心を取り戻そうとするものの感情は激しく揺れて、どうにも治まりそうにない。私は自分の中で湧き上がり沸騰する感情を持て余し、両腕を上げた。思いを込めて近くに存在していた彼の身体を抱き締める。うまく言葉にすることをできない、愛情の意を持って強く強く。
「これってさ……君への思いの証にならない?」
私に抱き締められたまま成歩堂は言う。それと一緒に身体が揺れた。どうやら笑っているらしい。しかし私は笑うことなどできなかった。彼の過ごしてきた数年間がとても重いものに感じて、それと同時に愛おしさが込み上げてきて、自分の胸が苦しくなる。
何とか息を吸い込んで、自分も自分の思いを素直に口にしようとした。成歩堂の真摯な思いに自分なりに答えようと。その準備として一度だけ名を呼ぶ。
「成歩……」
「あ!」
腕の中にいた身体が大きく跳ねた。私も思わずぎょっとして身体を離す。成歩堂は大きな目をさらに見開いて私を見つめ返していた。瞳の底に燃え上がる意志の力に圧倒され、私は顎を引いて彼の目を見返した。成歩堂は二度ほど瞬きを繰り返した後に叫ぶ。
「そうか!まだ議論されていない証拠品があるじゃないか!」
ギロン……?聞き慣れているはずの単語が一度聞いただけでは理解できなかった。先程までの雰囲気と会話の流れに全く関与していない彼の発言に、私の頭は納得どころか混乱し始めた。呆然とする私の身体を雑に押し返し、成歩堂はそうだそうだと呟きながらデスクへと戻っていく。
一人取り残された私は彼を抱きしめていた両腕を仕方なく下ろす。抱きたい相手と距離が生まれれば、手を持ち上げていても届かないのだから。あんなに胸を締め付けた愛情たちは一つも言葉にできないまま霞み始める。渡す相手がいなければ、何も言うことができないのだから。
「成歩堂……」
行き場のなくなった思いが私の唇を震わせ、小さな呼び掛けを落とす。しかしそれは相手に届くことなく、あたりに虚しく響いただけだ。成歩堂は眉を寄せ、再びデスクの上の書類の束に向き合っている。今の彼の頭の中には私と交わした会話のひとかけらも残っていないのだろう。依頼人を無実に導く。その目的に彼の全てが傾けられているのが読み取れた。
ふっと私は息を落とす。そして再び側に置いてあった新聞紙に手を伸ばした。先程は視線を流すだけで全く読んでいなかった文字たちに、今度は腰を据えて取り掛かる。どうやら優秀なる弁護士は新たな道を模索し始めたらしい。真実を手探りで見つけ出すにはそれなりに時間が掛かるだろう。ただ、子どものように拗ねてるだけでは一人の時間をうまく潰せない。
新聞紙の影からちらりと彼の姿を窺う。成歩堂は私の存在には目もくれず、書類にペンを走らせていた。その胸には気高く光る金色のバッジ。
先程以上に邪険に扱われているのにも関わらず、私はそれを見て思わず溜息混じりに微笑んでしまった。
全く。
神聖なる弁護士バッジを愛の証などと呼ぶ、不埒な弁護士は君くらいだぞ。
へたれというか駄々っ子検事。
うまく丸め込まれていますが、それに気付かないのが御剣クオリティ。