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 ある日の午後の昼下がり。
 私はいつものように成歩堂法律事務所の前にいた。右手にはケーキの入った薄いピンク色の箱。
 所長よりも大きな顔で事務所を仕切る彼女たちの好みを考え選考した、有名店のものだ。きっと気に入ってくれるだろう。
 ───将を射んとすればまず馬を射よ。
 師からその言葉を習った記憶も特にないが、それは一般的に言われている成功率の高い攻略法のひとつ。
 私は小さく一度頷く。そして意を決して目の前の階段を上り始めた。







「御剣検事、いらっしゃい!」
 ふたつの笑顔に迎えられ、私はぎこちなく笑みを返す。
 苦手なのだ、笑顔というものは。自分がするのも相手にされるのも。屈託のない笑顔を向けられ、それに返す自分の笑顔が不自然ではないかかどうかを考えているうちにわからなくなってしまうのだ。表情の作り方を。
 悩んでいるのを悟られるのも嫌で、私は手にしていた箱を差し出した。
「真宵くん、春美くん。これは土産だ」
 そう言って手にしていた箱を差し出すと、少女たちはわぁと歓声を上げた。春美くんは箱をうやうやしく受け取り、真宵くんは口の横に手の平を添えて事務所の奥に向かって叫んだ。
「なるほどくーん!御剣検事がケーキくれたよ!」
 彼女の口から発せられた名前にどきりとする。名前だけで反応してしまう自分の浅ましさが少し恥ずかしく思えた。自嘲で思わず唇が歪む。
「来てたの」
 所長室から出てきた彼は不機嫌そうにそう短く呟くと、私にろくに挨拶もしないでどっかりとソファに腰を下した。腕まくりをした両腕を天に向かって持ち上げ、大きく伸びをする。
「あー疲れた。真宵ちゃん、コーヒー淹れて」
「りょうかい!御剣検事、どうぞ座ってください」
 笑顔に背中を押され私はソファを見つめる。ソファはふたつ。成歩堂が座るソファとそれに向かい合うソファ。真宵くんが指し示したのは誰も座っていないソファではなく、成歩堂がすでに腰を下しているソファだった。
 真宵くんと春美くんが並んで座るのだから、私は成歩堂の横に座ることになる。
 座る位置に特に大きな意味も問題はないのだろう。
 しかし私は一人煩悶した。二人掛けのソファとはいえあまり大きくはない。真宵くんや春美くんのような少女が腰掛けるのならばともかく、私と成歩堂のような成人男性が並んで座れば確実に肩が触れ合う。
 成歩堂と私の肩が触れ、体温が合わさり混ざる。深く考えると何とも卑猥な気がした。身体の一部分が触れるという、恋する純情な少女が赤面するような状況でも、二十歳を当に過ぎた青年でもある自分が恥らっていては気持ちが悪いだけだ。
 私はできるだけ表情を変えないようにして彼のすぐ隣りに腰を下ろした。
 何かをつけているはずはないのに、それだけで彼の香りがふわりと鼻を掠めた気がした。いちいち反応する自分が恥ずかしい。
 成歩堂は片膝に自分のひじを付き、私のいる方向を見た。その近い距離に冷静を保っていた顔が、そろそろ限界を向かえそうだ。
 手を伸ばせば触れることのできる距離にある、成歩堂の唇が動く。御剣、と私の名前を呼ぶ。
「で、お前、何しに来たの」
 しかし、そこから発せられたのは何とも愛想のない言葉だった。
 私と成歩堂が付き合い始めたのは約一ヶ月前のことだ。子供の頃の短い付き合い、そしてお互いに成長して再会し、紆余曲折を経てようやく心を通わせた時に。友情以上の感情が生まれたのだ。
 過ぎた憧憬が恋愛に変わるのはそう難しいことではなかった。
 と、彼は後にそう語った。私も、何もかもを投げ出して自分を信じてくれた彼を誰よりも愛しいと思うことを、止めることはできなかった。
 お互いの思いを全て伝え終わった後に、まるで中学生同士が交わすようなぎこちないキスを交わし。
 すごく、君のこと好きかも、とはにかんで言った彼の顔が忘れられない。
「また邪魔しに来たんじゃないだろうな。真宵ちゃんたちとじゃれるのはいいけど、ぼくを巻き込むなよ?」
 無愛想な顔でそう言い放つ彼とあの時の彼とは、本当に同一人物なのだろうか……そんなことを考えながら私は無言で頷いた。
 友情から恋愛へと進むのは簡単なことだったが、私たちにとって難しいことはその後の方だった。
 成歩堂という男はかなり極端な人間で、私が被告人という立場に心ならずになってしまった時などは全てを投げ打ってでも助けにまわるのだが、いざその危機を脱出してしまえばその後の扱いはぞんざいなものになる。私と同じ経験をしている真宵くんや矢張ならばその気持ちは痛いほどわかってくれるだろう。
 釣った魚に餌はやらないという、典型的なタイプなのだろうか?最も、私は彼に釣られた覚えはないが。
 今は、何故か私が彼を餌付けしているような状態になってしまっている。今日のように助手たちが大喜びするであろう手土産を持って彼の事務所を訪問しているのだ。個人事務所を構える彼よりは検事局に属している私の方が身動きがとりやすいのもあった。
 全く、自分でも情けない。そう思う。
 彼に会いたくて、彼に少しでも構ってほしくて、こんなことをしているなどと。毎回手土産の内容に苦心し、忙しくないだろう時間帯を見計らって。自分とて暇ではないというのに。
 そうは思っていても、私は二週間に一度はここにこうして座っていた。差し入れのみで彼を懐柔出来るなどと、そんなこと思ってはいない。そう思いつつも毎回毎回、律儀にも手土産を携えて。
「御剣検事、前に教えてもらった紅茶買ってきました!」
「わたくし、いれてまいりますね!」
 ソファの背もたれの後ろから、装束を着た少女たちが代わる代わる声を掛けてくる。……少なくとも二名の助手は懐柔できているようだった。
 春美くんは先にキッチンへと向かい、真宵くんは私から受け取った箱を開いた状態で成歩堂へと差し出した。
「なるほどくん、どれか選んでね」
 そこには数種類のケーキが所狭しと詰め込まれている。成歩堂、真宵くん、春美くんと、一人ひとつずつ取っても余る数のケーキに成歩堂が目を丸くした。
「お前これ、いつも並んで買ってくるのか?」
「当たり前だ」
 咄嗟に嘘をついてしまった。
 正直に言えば、あの薄汚いコートの刑事に並ばせている。手土産とは別に自身のケーキも買えるとあって、本人は喜んでお使いを頼まれているのだが。
 彼に褒めてほしい一心で他人の手柄を横取りした浅ましい自分に辟易した。
 が、それは成歩堂の無邪気な笑顔に吹き飛んでいく。
「御剣とケーキ屋って恐ろしく似合わないな」
 失礼な発言内容とは裏腹に向けられた笑みに、私の中の葛藤が全て洗い流されていくようだった。これで少しは機嫌が直ったのならば、嘘をつくことも悪くない。
 うム、と不器用に答える私を置いて彼はまた箱の中を覗き込んだ。その時キッチンから真宵くんを呼ぶ声が聞こえ、真宵くんは手にしていた箱を成歩堂に預けその場を去った。
 どれを食べるかを決めた様子の成歩堂が、ふと顔を上げた。横顔を盗み見るようにして見つめていた私と目が合い、後ろめたさからか思わずどきりとした。
「御剣は、何が食べたい?」
 くるりと黒く丸い瞳が動き私を捕える。
 私の名前を呼ぶ最後の音がほんの少し擦れること。こちらを覗き込む仕草の無防備さ。
 そのひとつひとつが狂おしいほどに私を翻弄するというに。
 彼自身はそのことに気が付いていないらしい。私の返事を待つ間、瞬きもせずにこちらをじっと見つめてくる。
 ああ、願わくは。
 ケーキよりも甘い君との口付けが欲しい。
 もちろんそんなことを言えば成歩堂に一笑されるだけだ。だから私は無言のまま人差し指でチーズケーキを示す。了解、と成歩堂はにこりと笑った。
 その笑顔ひとつが私にとってどのような感情をもたらすのか。全く意識のない罪深い弁護士は真宵くんを追ってキッチンへと行ってしまった。







 四客のティーカップを手にキッチンへと足を踏み入れると、腕まくりをしていた成歩堂が私を振り返った。そして、ああごめんと言って笑う。
「一応、客なんだからさ。座っててくれてよかったのに」
「君こそ一応所長なのだから、こういうことは彼女たちに任せたらよいのではないか?」
 私の背後からは賑やかな笑い声が響いている。助手兼雑用係でもある真宵くんたちは休憩中に見始めたテレビに夢中になっているらしい。
「いつもお茶淹れてもらってるからね。恩返しってやつかな」
「君が無駄なことをせずに仕事に戻るのが一番の恩返しになると思うのだが……」
「所長にも息抜きが必要だろ」
 無駄口を叩きながら彼の隣に並んだ。
「そろそろ、私は失礼する」
「悪かったな。今日も奢ってもらっちゃって」
 今日も、四人で和気藹々と雑談をしただけで私の訪問は終わってしまった。そろそろ検事局に戻らねばならない。法律事務所らしからぬ穏やかな空気の流れるこの場所は嫌いではなかったが、第一の目的を思えば溜息のひとつも出てくる。
 微かな失望をこめた私の言葉に彼は屈託もなく笑った。私はもはや彼の恋人ではなく、差し入れを持ってくる人間としてインプットされているのではないか……そんな一抹の不安を生むような、邪気のない笑顔だった。
 給湯室レベルの簡易的なキッチンはかなり狭かった。男二人だけですぐに占領されてしまう。そんな場所でいつものやりとりをしていた彼が、側に置いてあったケーキの箱に気が付いた。そしてすぐに顔を上げて私に言う。
「ひとつ残ってるな。御剣、食べちゃえよ」
 言われたとおりに覗き込んでみると、真っ白なクリームをあしらったケーキを土台とする、目にも鮮やかな赤色の苺が見えた。皿はないかと目で問いかけるも、洗い物に夢中になっている成歩堂は手で食べれば?と適当に返事をした。
 仕方なくケーキの上に乗っていた苺を摘んだ。行儀の悪い食べ方に自分で眉をしかめつつ、口に運び、赤い果物が私の唇に触れるか触れないかのところで───彼はふいに手を止める。
 成歩堂がこちらに目掛けて、来た。
 思わず瞬きをする。
 目を閉じる瞬間、本当に瞬間すぎて視界が途切れたことすらわからない。
 その瞬間を狙って唇に何かが触れた。
「……甘い」
 そう呟いて成歩堂はまた洗い物に戻っていた。流水音を呆然と聞きながら、私は形の欠けた苺を頬張る。彼の言うとおりに甘いそれを必死に噛み砕き、飲み込んだ後でようやく彼を非難した。
「……ケーキが、欲しいのならば。そう言えばいいだろう。そんな、行儀の悪いことをしなくても」
「ごめんごめん」
 悪びれもなく成歩堂は謝る。
 そうだ、彼が欲しがったのは苺なのだ。私の唇に触れたのは彼の唇ではなく、苺の感触だった。そしてそれを持つ私の指の感触だった。食べ掛けていた苺に成歩堂が噛み付いたのだ。キスをされたわけではない。
 そう自分に言い聞かせ、自分を立て直そうとする。そうでもしなければ私の顔は今食べた苺のように真っ赤に染まってしまうだろう。不意打ち過ぎて、自分が冷静に保てない。
 全ての洗い物を終えた成歩堂が蛇口をひねり、音が途切れた。背後からは相変わらず少女たちの楽しそうな声が聞こえてくる。彼女たちに気付かれない声で、成歩堂が囁いた。狭い場所、身体が触れ合う近い距離で。
「御剣が食べてるイチゴが欲しかっただけ」







 それからというものの、私は糸鋸刑事に下す命令をほんの少しだけ具体的にした。彼は限定的すぎるその命令に幾度も音を上げたが、私はそれを許さなかった。
「御剣検事、もうこの辺のショートケーキは買いつくしたッス!他のケーキじゃ駄目ッスか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

3276お披露目会、開催おめでとうございます。
逆転検事発売おめでとう記念ということで、
検事を甘やかすことに。
一回落としてから持ち上げるというお得意のパターンとなりました。
主役であんだけモテたんだからいいよね!
読んでくださり、ありがとうございました!


 

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