「…なんだ、御剣か」
ドアノブに指が触れる寸前に扉が勢いよく開いた。
ぎょっとした私を見、中から飛び出してきたギザギザ頭の男は露骨に眉をしかめる。
「なんだとはなんだ」
「ああもう君の相手してる暇はないんだよ!真宵ちゃん、ぼくちょっと出てくるから!」
憮然と言い返した私の言葉をあっさりと流し、成歩堂は事務所の中へと声を張り上げた。
その声に呼ばれ、見慣れた奇妙なちょんまげがひょこりとのぞく。
入り口に立ち止まったままの私を見つけ、にっこりと真宵くんは微笑んだ。
「あ、御剣検事だ!」
「真宵ちゃん、御剣の相手してやって。帰り、遅くなるようなら電話するから」
「はいはい。いってらっしゃーい」
一応、私は客としてこの事務所に訪れたはずだが…
成歩堂法律事務所の所長である成歩堂は、私に目もくれずに階段を駆け下りていった。
彼の背中を見送り、私は隣に立つ人物を振り返る。
「忙しいようだな」
「ええもう。実力派弁護士ですからね!」
あれでも、と余計な一言を付け加えるこの少女は副所長で助手でもある綾里真宵くんだ。
ある事件のために一時帰国した私だが、数日後にもう一度海外に発つ事となった。
最後に成歩堂に顔見せをと思い、ここに立ち寄ったのだが彼は思ったよりも仕事が忙しいらしい。
「御剣検事、どうぞ。お久しぶりですね、なんだか」
ソファに腰を掛けると真宵くんが紅茶を出してくれた。
そして自分の分のカップを私の前に置き、正面に座るとにこりと笑った。
「うム…しばらく日本にいなかったからな」
「色々な国で検事のお勉強中なんですよね」
口を開き、私の仕事を詳しく教えようとしてやめた。
法律の知識もない彼女に詳しく説明しても、理解をすることは難しいだろう。
小さく頷いた私を見て真宵くんは両手を合わせて笑う。
「いいな。あたしもどこか遠くに行きたい」
それはいつもどおりの、彼女の明るい相槌だった。
しかし何か引っかかる所があって、私は口を閉じて彼女を見つめた。
私に視線に真宵くんは目を丸くして首を傾げた。
その表情に先程の暗い影は見当たらない。その様子を見て、私は心の中でほっと胸をなでおろした。
綾里家の女性たちが引き起こした事件…その根本的な原因となったのが、真宵くんだ。
見たところ、彼女の様子に変化はない。
裁判が終わった直後はさすがに沈んでいた様子だったが、成歩堂と春美くんとともに葉桜院から
戻った時には、いつもの笑顔を取り戻していた。
成歩堂がどういう言葉で彼女を元気付けたのか…私のような口下手には、全く想像もつかない。
それとも、彼女自身の強さと性格でこの明るさを取り戻したのだろうか?
ふと気がつくと、真宵くんの顔が真っ直ぐにこちらを向いている。
一人考え込んでいた私は、手にしていたカップをテーブルの上に戻した。
じっと黒い瞳で見つめられ、私は眉を寄せた。無言のまま視線をそらそうとせず真宵くんは口を開いた。
「御剣検事。…あたしのこと、どう思います?」
思いがけない質問に、思考が停止した。
成歩堂といい彼女といい、どうして弁護側の人間はこちらの言葉が詰まるような質問を
脈略もなくぶつけてくるのか。
彼女に対して、私がどのような感情を持っているのか?
それはいまだかつて、考えたことがなかった。
成歩堂の助手…いや、もう彼を介していない関係とも言えるのかもしれない。
…では、友人ということになるのだろうか。
しかし今現在、私は彼女に対して好意を少しも持っていないと言うと嘘になる。
ここで友人という答えを返すのは、今後において多大な影響を与えるのかもしれない。
………いや、でも。
考えあぐねた私は努めて無表情を装い、こう答えた。
「───次期家元の、霊媒師」
我ながらなんて色気のない答えなのだろう。無表情の裏で、私は自分自身を叱責する。
こんな情けない言葉を返したと知られたら、冥どころか成歩堂にも失笑されるだろう。
真宵くんは私の答えに満足したのかしてないのか、一変して微妙な表情になってしまった。
「霊媒師、かぁ」
そして独り言のように私の答えを復唱する。
ここに机があれば、私は間違いなくそれに自分のこぶしを打ちつけるであろう。
いや、あの日に見た狩魔検事の様に自分で自分の頭を壁にぶつけているのかもしれない。
それほどに私は自分で自分の発言を悔いた。真宵くんはそんな私の様子に気づくことなく顔を俯かせた。
自分の露出した膝に手のひらをのせてもう一度、霊媒師かぁ、と呟いた。
「ム…」
何か言わねばと様々な言葉を頭の中で巡らせるのだが、情けないことにうめき声のようなものしか出てこない。
しばらくして彼女は顔を上げる。
真っ直ぐな瞳で見返され、ますます困惑した私は無表情のまま彼女を見つめ返す事しかできなかった。
「この格好じゃ、法律事務所の副所長になんて見えませんよね」
真宵くんの明るい声が二人の間に流れていた沈黙を破った。
そして自分の格好を指差し彼女はにっこりと微笑む。
それは確かに笑顔だったのに、見ていてなぜか胸が痛んだ。
「あたし法律の知識なんて全然ないんですよ」
声色も表情も明るいまま、真宵くんは言葉を続ける。
「なるほどくんの隣りにいても、役に立たない。役に立つのはお姉ちゃんだから」
自虐的な言葉を笑いながら話せるのも、彼女の強さからなのだろうか。
私が言葉を挟む暇も与えずに真宵くんは早口で言う。口元にはっきりとした笑みを浮かべながら。
目が合うと、今度は瞳を細める。そしてますます自分を追い詰めるような言葉を口にした。
「でもね、里に戻ってもあたしはあまり役に立たないんです」
「……君は、家元になるのだろう?」
その家元とやらがどのような役割を果たすのか、私には理解できない。
が、そのものを巡って様々な事件がおきたこと…それは紛れもない事実で救いようのない現実だ。
「霊力なんてね、あたしはあまり強くないんです。はみちゃんの方がすごいの」
でもあたしが本家なんだよね、と真宵くんは少しだけ眉を下げる。しかしそれはすぐに打ち消される。
見慣れた彼女の笑顔によって。 言葉とは逆に動く表情を私は不思議な思いで見つめた。
なぜ、彼女はいつも。
「───君はなぜ、いつも笑っているのだ?」
その疑問はするりと口から落ちてしまった。
ただ単純にそう思ったのだ。
出会うたびにいつも彼女は窮地に立たされていて、その度に私は彼女の境遇に同情していたのだが…
しかし、当の本人はいつでも笑顔でいた。
真宵くんは私の突然の質問に驚いたのか、細めていた目を一瞬だけ丸くする。
うーん、と顎に手をあて斜め上を見つめた。 じゃあ聞きますけど、と前置きをして彼女は口を開く。
「あたしはどういう顔をしてるのがいいんですかね?」
突然切り返された彼女からの質問に今度は私が目を丸くした。
「どういう…とは」
「どういう顔だったらおかしくないのかな」
「ムムム…」
予想もしない話の展開に、私は言葉を詰まらせてしまった。
そんな私の様子に気がつきもしない様子で真宵くんは笑った。いつも見せる、あの明るい笑顔で。
「でも、はみちゃんはあたしが笑ったら笑ってくれるから。あたしは笑っている方がいい」
その笑顔のまま、彼女はそう言った。 見ているこちらの胸が軋んでしまうような笑顔を形作って。
私は何を返していいのかわからなかった。痛すぎる彼女の笑顔から目を逸らし、視線を床に落とす。
そして呟く。
「私には…君たちが執着しているものの価値自体が理解できない」
「そう言われちゃうとつらいな」
苦々しい思いで吐き出した言葉を真宵くんは軽く流した。
霊媒というものが彼女の母親、私の過去、そして私の父の死に大きく関わったこと。
その事件は時が経った今でも胸を苦しめる。その事を彼女も理解しているのだろう。
私は一度口を閉じ言葉を切る。そして落としていた視線をもう一度上げ、真っ直ぐに彼女を見つめた。
「先程返した霊媒師という答えは却下する」
「御剣検事…?」
「真宵くん。君は今ここの事務所の副所長であって、霊媒師ではない」
私の言葉に彼女の顔から笑みが滑り落ちた。
「霊媒など信じていない私の前で無理して笑うことはない」
その時、初めて彼女の表情が歪んだ。けれどもその僅かな変化を恥じるように、真宵くんは素早く俯いた。
手前においてあるカップを無意味に手に取り、そしてまた指を離す。
その仕草を私は無言で見つめていた。そして、しばらくして。
「御剣検事」
震える声が私の名を呼んだ。一瞬泣いているのかと思ったのだが、そうでないらしい。
彼女は顔を長い髪で隠したまま、けれどもはっきりした声でこう告げた。
「今ちょっとだけ、笑うのやめますけど。…いいですか?」
「……構わないが」
短い言葉を返し、私はテーブルの上のカップに手をつけた。
冷めた紅茶に口をつけ、正面に座る真宵くんをしげしげと見つめた。
「だいたい、そんな格好ばかりしているからいけないのだ」
「そんなに変ですか?この格好」
俯いたまま真宵くんは答える。手のひらで自分の着物を撫で、そのまま小さく首を傾げる。
「……まぁ、冥のようにあそこまで華美にするのもどうかと思うが」
「御剣検事、人のこと言えませんよ?」
そう言って真宵くんは肩を揺らして笑った。それは無理に作ったものではなく、自然に零れ落ちた笑みらしい。
身体が揺れると黒い髪も揺れ、彼女の表情をさらに隠す。探ろうと目を細めてみたが、すぐにやめる。
組んだ膝の上に置いた腕で頬をつき視線を彼女から外した。
きっと、いつもと同じ笑みを浮かべているのだろう。それを無理に確認することはない。
今は彼女のしたい表情をさせればいい。 ここにいるのは私だけなのだから。
「あたしもそのフリル付けてみたいな」
「………今度来るときは、別に替えのタイを持ってこよう」
「本当に?約束ね」
彼女の語尾が脈略もなく揺らいだ。私は視線を彼女に戻す。
両手で自分の口元を押さえ真宵くんは涙を堪えていた。肩を微かに震わせ、瞬きすら我慢して。
その小柄な身体に、どれほどのものが重く圧し掛かっているのだろう。
君がそこまでして何を守ろうとするのか正直、私にはわからない。
それを理解しようとも、手を伸ばして救おうとも思わない。
彼女は逃げ出すことを望んでいるのではないのだから。
「御剣検事…ありがとう」
しばらくして真宵くんが小さな声で呟いた。俯いたまま赤くなった鼻を両手の指先で隠しながら。
私は無言で首を振り、それに答えた。胸の中であるひとつの事を願いながら。
私は何も知らないし、彼女の近くにいてやることもできない。
けれども、君の事を願うことはできる。
自分が…いや、他の者が不幸になっても構わない。
いつも自然な表情で、笑っていられるように。
私は君に願う。
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