3月23日 午後10時40分 坂東ホテル
大きなホテルとはいえ、この時間帯だからなのか人気もなく、どこか薄暗いような雰囲気すら感じる。
すみれの間から出てきた私は、トイレの側にある自販機の横に人影を見つけた。
壁に寄りかかり、両手を持ち上げかけて…成歩堂龍一は私の存在に気付いたようだ。
「御剣」
軽く頷き、それに答える。 と同時に、彼の手の中にあるものに気付き思わず眉をしかめる。
それに気がついたのか、成歩堂は右手を上げてこう言った。
「そんな顔するなよ。お前も吸う?」
「結構だ」
そう、と短く返事をすると煙草をくわえ、火を点けた。 ふわりと香る、独特のにおい。
広くはない廊下に、煙が広がる。
「いつも吸ってるわけじゃないよ。本当にたまに、ね」
目を伏せ煙を吸い込む。
彼は、時々こうだ。煙草の匂いは嫌っているくせに、慣れた手つきで口に運ぶ。
その仕草がなぜかとてもゆっくりで、気になった。 壁に寄りかかり、彼の隣に並ぶ。
覗き込むように首を傾け、問い掛けてみる。
「疲れてるのか…?」
「まぁね。今回のは…ほんと、キツかった」
有罪の人間を無罪にしなければならない──1年ぶりに再会した成歩堂は、大きな壁にぶつかっていた。
その彼を手助けするため、私は帰国した。 自分なりに突き止めた答えを、自身の胸に抱えて。
「真宵ちゃんが無事で、本当に良かったよ」
「被告を無条件に信じる君には…つらい裁判だったな」
私の言葉を聞いて成歩堂は微かに笑う。
「ぼくを馬鹿にしてるのか?」
「まさか。それが君のやり方だろう?依頼人を信じることが…」
「そうだね」
煙草の先に、小さな赤い光が現れては消える。
「しかし、今回の被告のやり方は…卑劣だな。もし真宵君に何かあったと思うと…」
「うん。でももうぼくが何もしなくても、彼には刑罰がかせられるだろうから」
彼に対しては特に何も思わないな、と付け加え、手近にあった灰皿に煙草を押し付けた。
あっさりとした物言いに、思わず尋ねる。
「随分あっさりしてるな。君らしくないもない」
「どういう意味?」
逆に問い掛けられて、言葉が詰まる。
「いや…君は優しい男だからな。もっと彼に対して感情的になっているのかと思っていた。
だからこそ今回の裁判も悩んだのではないか?」
「王都楼のことは許せないよ。でも、それも無罪を勝ち取るための方法といえばそうなのかもしれない。
正直、真宵ちゃんが助かればぼくは霧緒さんが有罪になっても良かったと何度も思ったよ。 君だってそうだろう?」
私が彼に感じる違和感…それは1年ぶりに出会うからだろうか?
それとも慣れていない煙草の匂いのせいなのだろうか?
成歩堂の手の中で、小さな炎が一瞬燃え上がる。
それはくわえられた煙草の先へと移り、消えた光のかわりに彼の口元から煙が生まれた。
「成歩堂…君は、変わったのか?」
「え?」
「まるで君らしくない言い方ばかりするな。 君は…そんなことを言える人間だとは思わなかった…」
成歩堂は私の言葉を、ただ聞いていた。時折、目を伏せ煙草の灰を落としながら。
二人の間に、沈黙と煙だけが流れる。しばらくして、彼は口を開いた。
「ぼくはただの弁護士だからね。カウンセラーでもなんでもない」
一度言葉を切り、指先で軽く煙草を揺らし灰を落とす。
ずっと伏せられていた目が、ゆっくりと私を捕らえた。そしてまっすぐに見返す。
「君にそう、知らされたんだよ」
「!」
思わず身体を強張らせる。瞬間、閉じてしまった瞳を再度開ける。
成歩堂の持っていた煙草が…私の鼻先の間近に通り、壁へと押し付けられていた。
微かに壁が焦げたにおいがする。
「真実を突き止めることが人を救えるなんて…ぼくの驕りだったみたいだな」
お互いの吐く息が触れるほど、間近に見つめ合う。 皮肉げに成歩堂の口が歪んだ。
「そうだろ?御剣。だから君は逃げたんだ──ぼくに何も言わずにね」
「…成歩堂、私は」
「判決を受けた後までフォローするつもりはないよ。そう決めたんだよ」
見つめられていた目が、ふっと逸らされた。
「君は自分で答えを見つけたんだろ?それでいいよ。ぼくは何もしていない」
押しつぶされた煙草の吸殻を、灰皿へと投げ捨てる。
「君にぼくは、必要なかったみたいだからね」
胸のポケットに仕舞われていた煙草の小箱に、再び指が掛かる。
その指先が微かに震えているようにみえた。
「私にも1本くれないか」
そう言って、彼の手元の箱に手を伸ばした。
成歩堂は一瞬、びくりと動作を止め私の顔を見た。
視線を横顔に感じつつ、マッチを擦って火を起こし煙草へと炎を分け与える。
よりいっそう濃い紫煙が暗闇を包む。
煙が肺にたまっていく感覚。流れ込んできた煙に、思わず咳き込みそうになった。
「慣れない事するなよ」
その様子を見て、成歩堂が言った。
「君こそ、慣れないことをするのはやめたまえ」
──他人を傷つける言葉を、何回も投げつけるような行為は。
──そして自虐的な言葉で、自分を追い詰めるような行為は。
くっ、と彼は肩を揺らした。
「君には全部お見通しってわけか」
身体を少しだけ前に傾け、空いている方の手のひらを私の肩の上に乗せた。
俯き加減にされているため、表情までは読めないけれど。
「…もう、どこにもいかないでくれ」
苦しげに、一言だけ漏らされる呟き。
置かれている手のひらに、力が込められる。
「…了解した」
君が望むのなら、永遠に君の側で。
君の隣で、以前のように過去を悔やむことのない様、生きていきたいと思う。
私が一年間、探し求めていた答えは…君が持っていたのだよ、成歩堂。
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