混雑した駅のホームで、私は眉をひそめた。
目が会った相手は、馬鹿みたいに口を大きく開いて私を見つめ返した。
人並みに流されつつもその男はふらふらと私の目の前までやってくる。
そして馬鹿みたいな顔で笑い、こう言った。
「こんにちは、狩魔検事」
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「狩魔検事でも電車なんて乗るんだ」
「…………あの馬鹿な刑事が馬鹿ゆえに事故を起こして、帰る足が無くなったのよ」
明日会ったらムチのフルコースをくれてやるわ、と付け加える。
右手に丸めて持っている鞭と、私の顔を見比べ、成歩堂龍一は冷や汗を流す。
「うわ…イトノコさん、生きて会えるかなぁ」
「…………」
無言で視線を向けると、成歩堂龍一はびくりと身体を揺らした。
持っていた鞄で自分の身を庇いながら。
「安心しなさい。駅のホームでムチを振るほど私は馬鹿じゃないわ」
「なら法廷でもムチはふらないでほしいけど…」
じろりと睨むと成歩堂龍一は慌てて自分の口を押さえ、視線を逸らす。
(全く、馬鹿との馬鹿馬鹿しい会話ほど馬鹿らしいものはないわね…)
ただでさえ一人で電車に乗って帰るというこの状況が腹ただしくてしょうがないのに、
一番憎たらしいこの男と法廷以外で顔を合わせる事になるとは…
会話らしい会話もしたことがないし、する気も起こらない。けれども彼はその場を去ろうとしなかった。
ここがホームじゃなかったら、ムチで叩いて追い返すのだけれど。
「電車、遅れてるみたいだね。事故でもあったのかな」
こんなに人が溢れているのはそのことが原因らしい。この男はここを動かないのではなく、動けないのだ。
私はあきらめ、小さくため息をつく。そして、正面からしか見たことないこの男を 暇つぶしに観察し始めた。
青いスーツに赤いネクタイ、とがった髪。緊張感もなくへらへらと緩んでいる口。
あきれるほどに、威厳のかけらもない。
胸に掲げているバッジがなければ、とうてい弁護士には見えないだろう。
私はため息をついて腕を組む。それに気がついた成歩堂龍一は不思議そうに私を見つめた。
「あなたみたいな馬鹿がよく弁護士になれたわね」
「はは、自分でもそう思うよ」
嫌味が通じないのも、馬鹿だからなのだろうか。私の言葉を成歩堂龍一は笑いながら肯定した。
「ぼくは君みたいな天才じゃないからね、苦労したよ」
「…………………」
私が口を閉ざしたことにも気づかず、彼は言葉を続ける。
「君には簡単だったかもしれないけどね。ぼくには大変だったよ、弁護士になるのは」
「……馬鹿は馬鹿なりに己をよくわかっているのね」
「ぼくだって自分の身の程くらい知ってるよ」
肩をすくめ、彼は笑う。それが私には理解できなかった。
自分の愚かさを、どうしてこの男は正直に認めることができるのだろう。
───私には、絶対できないことなのに。
「虚勢を張ってもみっともないだけじゃないか。努力しても天才には敵わないよ」
(……!)
成歩堂龍一は、さらりとそう言った。彼は自分のことを言っているのだろう。
それはわかっていたのだけれど、頬が熱くなったのが自分でもわかった。
私は反射的に鞭を握った方の手を上げる。
成歩堂龍一とその周りにいる人々がぎょっとした顔で私を見た。
「待った!危ないって…」
「うるさい!」
止めよう近づく、成歩堂龍一を一喝した。
「虚勢を張って……!」
何が悪いの。
その言葉は最後まで言えなかった。
身の程を知らなくて何が悪いの。敵わなくとも努力することの、どこが悪いの。
「馬鹿な弁護士は馬鹿ゆえに馬鹿なことしか言えないようね…!」
目の前に立つこの男のように、自分で自分の無力さを認めることはできない。
私を置いていなくなったあの男のように、すべてを投げ出すこともできない。
「狩魔検事…?」
ムチを持った私を驚いた表情で見つめ、成歩堂龍一は私の名前を呼んだ。
───そう。私は狩魔冥なのだから。
これまでも、これからも。ずっとずっと、一生。
心の底から頼っていた人間を失っても、初めて敗北を目の前に突きつけられ、自信を失いかけていても。
たった一人で天才を演じなければならない。
このムチを武器にして、法廷で虚勢を張っていかなければならない。
「ちょ…何するの!」
いきなり、成歩堂龍一が私の手を掴んだ。表情は笑っていたけれど、その力は強い。
抵抗らしき抵抗もできずに、私は手に持っていたムチをあっという間に奪われてしまった。
彼は私と目が合うとにっと笑う。睨みつけ、言葉で罵ろうとした私の手のひらに何かを
押し付けるように渡してきた。そしてさっと手を離し、また笑う。
「何よ、これ」
私は手の中のものと彼の顔を交互に見比べた。
それは小さいながらも、多大な存在感を放つもの…弁護士バッジだった。
「返しなさい」
「ぼくの弁護士バッジは君が持ってて、君のムチはぼくが持ってる」
「だから何よ」
何も付けられていないスーツの胸を張って、成歩堂龍一はおどけて笑う。
そして楽しげな口調で、こう言った。
「今くらい、弁護士と検事の立場を忘れてみない?」
「………………馬鹿が馬鹿げた戯れを」
「今だけこの馬鹿に付き合ってやってよ…そうだな、電車がこのホームに着くまで」
そう言って成歩堂龍一は歩き出す。私は慌てて彼の後を追った。
「検事と弁護士が法廷の外で会話するなんて……」
「ほら、いまぼくバッジしてないし、弁護士じゃないし」
「───馬鹿ね」
私は心底呆れてしまって、その一言で彼を罵ることしかできなかった。
「まぁ、一杯どうぞ」
成歩堂龍一は全く気にしない顔で笑うと、近くにあった販売機でコーヒーをふたつ買った。
差し出されたそれを、私は仕方なく受け取る。
いまだ人で溢れかえる駅のホームで私たちはお互いに距離をとりながら、横に並んで缶コーヒーを飲み始めた。
「こんなに安い飲み物、はじめて口にするわ」
「それはそれは」
げんなりとした顔で成歩堂龍一は空を仰ぐ。
「………でもおいしいわね」
「それはそれは」
ものすごく小さな声で言ったつもりだったけど、それは彼の耳にきちんと届いてしまったらしい。
へらりと笑った成歩堂龍一が憎たらしくて、右手を動かそうとした。
でも私のムチは今、彼の手の中にある。
私はその代わりに彼から預かった弁護士バッジを握り締めた。
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