思い出の写真は、それぞれの手の中に。
「おめでとうございます、成歩堂弁護士」
軽く会釈を返すと、ぼくはさっさと歩き出した。無罪を勝ち取れば、もうここには用がない。
依頼人の家族がぼくの姿を探していることに気がつかない振りをして、ぼくは裁判所の出口へと 向かった。
「待ってよー」
背後から少女の声が聞こえてきて、ぼくはとっさに振り返った。
笑顔の少女が、ぼくを追い抜いていった。少し小柄な少女はぼくの前を歩いていた男性に駆け寄る。
そしてその二人は並んで歩き出した。
ぼくはしばらく立ち止まり、その二人を見送った後、一人で再び歩き出す。
誰もいない事務所は、どこか寂しげな雰囲気を漂わせていた。
もともとそんなに広くない部屋だけど、ちょっと前までは……狭いと感じてたんだ。
(───そうだ、あの頃は)
人も、声も。すべてがみんなで溢れていた。
ぼくは鞄を探り、今日終えた裁判の資料を取り出す。そしてそれを、丁寧にファイルしていく。
判決が出ればそれはもう必要のないもの。無罪にしたからって、ぼくは賞状を貰うわけじゃない。
無罪判決の証なんてない。
引き出しを開け、そのファイルをしまいこもうとした時。視界の隅に入ってきたものに、 ぼくはぎくりとする。
それは過去の一瞬を封じ込めたもの。彼の無罪判決を勝ち取った瞬間を証明するもので。
そこにいるみんなは、嬉しそうな顔で笑っている。イトノコさん、真宵ちゃん、矢張、ぼく。
……そして、御剣。
ぼくは思わず泣きそうになって、歯を食いしばった。
泣いて何になる?涙を流せば余計に悲しくなるだけなのに。
ぼくは前を向く。そして次の事件の書類へと向き直った。思い出なんか、必要ない。
必要なのは、今目の前にある真実だけだ。
ぼくはそれをまた、しまいこんだ。もう二度と自分の目に触れないよう、奥深くに。
思い出の写真は、深い引き出しの奥に。
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もう、何度目だろうか。
私は空を見上げる。頭の上を、大きな音を立てて飛行機が一機通り過ぎていく。
飛行機の腹だけを見ると、まるでそれは水の中を泳ぐ魚のようだ。 私はまた乗り過ごしてしまった。
ベンチに深く腰掛け、息を吐き出す。 隣においてあるのは、大きなトランク。
私はそれをなんとなしに指で触れた。
日本を離れて数ヶ月。 私は少ない荷物を抱え、ここまで一人で逃げてきた。
3日間という短い時間で、私の全てが崩壊した。
いや、私が彼と再会してから…完璧な勝利を 崩されたときから。
あの日から歯車は少しずつ狂っていき、あの裁判で終わった。
15年間悩まされていた叫びを再び聞いて私の全てはもろくも崩れ去り、私はわからなくなってしまった。
恨み言のような書置きを残すことしかできず、私は検事局から逃げ出した。
そして時間がたった今でもなお、帰ることができない。
こうしてトランクを横に置き、空港近くの公園で飛び立っていく飛行機を何機も見送るだけ。
答えを見つけようとも、探そうとも思えない。ただ、こうしてぼんやりとするだけ。
彼らは、元気でやっているだろうか。
ふと、思い出した。
よみがえるのは、あの慌しい日々。留置所の中での日々は思い出したくはないが、あの優しい人々に
守られた喜びは、忘れられるものではない。
自分の立場を忘れ、私を慕ってくれた糸鋸刑事。声を震わせながら、異議を唱えてくれた真宵君。
何も恐れず飛込んできて、証言した矢張。そして、私が何を言っても私の無実を信じてくれた あの男。
(……そういえば彼は、検事になると言っていたな)
思わず口が緩む。そんなわけがない。あの男には、ひまわりのバッジが一番似合う。
あの日、あの場所で。私は確かに、幸せだった。
その先にどんな不幸が、つらい現実が待っていようとも、私は幸せだった。そう、あの瞬間が一番。
私はトランクに触れた。そして中にしまってある、一枚の写真を目を閉じて思い出す。
思い出の写真は、このトランクの中に。
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「真宵さん!」
厳しい口調で名前を呼ばれ、驚いたあたしは手に持っていた勾玉を落としてしまった。
盛大な音を立て、それは落ちて転がっていく。慌てて腰をかがめ、それを拾う。
おばさまのあきれたようなため息が耳に届いて、恥ずかしくなったあたしは頬を染めた。
「全く…いつまでたっても落ち着きがない」
「ごめんなさい、おばさま」
そういう時あたしは、にっこりと笑ってみせる。ここで反抗的になったって何もならない。
あたしは未熟で、霊力もまだうまく使えないのだから。
おばさまはそんなあたしを見て、ますます機嫌が悪くなったみたいだ。
今日の修行の終わりを 告げ、あたしに背を向けて去っていった。
あたしは一人取り残され、汚れてしまった勾玉を握り締めた。
こんなことはいつものことだ。いちいち傷つくこともない。
…そう自分に言い聞かせても、涙腺は素直だ。ゆらりと視界が滲み出す。
「真宵さま?」
後ろから小さな声があたしを呼んだ。あたしは溢れかけた涙を慌てて拭い、振り返った。
ふすまの向こうからぴょこん、と顔出してはみちゃんがあたしを見ていた。
「修行はもう終わったんですか?」
頷いて手招きすると、はみちゃんはぴょこぴょこ跳ねながらあたしの目の前までやってきた。
そして小声であたしにお願いをする。
「真宵さま、わたくしまたあのお話が聞きたいのですが…」
「えーまた?」
そう言いつつもあたしは笑顔だ。はみちゃんは目を輝かせて身を乗り出した。
「いいよ、話してあげる」
そしてあたしは口を開く。大切な日々を、自分の言葉で紡いで。
ひょうたん湖で起こった事件。留置所で怒られたこと。トノサマンまんじゅう、クラッカー。
その中で出会ったおかしな人たち、怖い人たち。
「それで、どうなったのですか…?」
何度も聞いた話だから、結果は知ってるはずなのにはみちゃんは真剣な顔で問いかけてくる。
「ここでね、異議あり!って叫ぶの」
あたしは腕を伸ばし、指し示して見せる。───あの時の、なるほどくんみたいに。
はみちゃんは嬉しそうに笑う。そしてあたしの真似をして、一緒に異議あり!と叫んだ。
・.
・.
「……で、無罪となりました」
おしまい、といって口を閉じる。はみちゃんはふぅ、と息を吐いてあたしを見上げた。
「真宵さま、すごいです!」
「ううん。すごいのはなるほどくんだよ」
結局、あたしは何も出来なかった。だから今、ここにいる。
「真宵さまとなるほどくんは、こいびとどうしなんですね」
うっとりとして呟いたはみちゃんに、あたしは苦笑しながら首を振った。
でもはみちゃんは全然聞いてないみたいだ。この前見せてあげた少女漫画の影響で、
最近のはみちゃんはこういうことばかり言う。
「なるほどくん、とはどのような方なんですか?」
「……はみちゃんにだけ見せてあげる。内緒だよ?」
声を潜めてそう言うと、はみちゃんは目を輝かせて何度も頷いた。
あたしは着物の袂に手を入れ、大事なそれを引っ張り出した。
その中で、身を寄せ合って笑う人たち。幸せな瞬間をいっぱい閉じ込めた、あの写真。
思い出の写真は、いつでも取り出せるこの場所に。
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その中の人たちは今、誰もそばにはいないけれど。
思い出の写真を見る度に、幸せなあの瞬間を思い出す度に
どうしようもなく淋しくなってしまうのだけれど。
───みんな元気ですか?みんな頑張ってますか?
こうして一人になることは、思ったよりも辛くて大変なことだけど。
でもこの写真があるから、頑張れる自分がいる。
だから泣くのは我慢しよう。涙は、まだとっておくよ。
また会えるときに、笑って話せるように。
誰もそばにいない、たった一人の事務所で。
逃げて逃げて、それでもまだ戻れない遠い国で。
自分のために人のために修行を続ける、山奥のある里で。
空を見上げる。
思い出の瞬間は、いつもこの胸の中に。
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