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生きているのに、死んでいる人に会った。


「今日はとても暖かいんですよ」
「これ、新しいカップです。今度は割らないでくださいよ?」
「コーヒー、淹れるの上手くなったでしょう?センパイには敵いませんけど」

誰かにしきりに話しかけている声。
あたしは思わず白い扉を押してしまった。大きな足音と共に部屋の中へ転がり込んだあたしに
お姉ちゃんは驚いて振り返った。 目をまん丸にしてあたしを見つめる。

「真宵!?どうしてここに……」

修行がお休みの、ある週末。
あたしは遠く離れるお姉ちゃんの元に泊りがけで遊びに来ていた。
数ヶ月に一度行われる、習慣となったお泊り会を数回続けた後。
あたしは気付いたのだ。
日曜日の朝に、一緒のベッドで寝ていたはずのお姉ちゃんがあたしに気付かれないよう出かけて行く事を。
腹ただしいような寂しいような気持ちになったあたしは、早めに起きてこっそりとお姉ちゃんの後を
追ってここまで来たのだった。

「だってお姉ちゃん、いつもあたしに内緒で出掛けちゃうんだもん。
  つけてきたら、病院に入っちゃったから心配になったんだもん」

ちょっと拗ねた声でそう言い返した後。
お姉ちゃんの眉毛が不機嫌そうに歪んでいて、あたしは口をつぐむ。
内緒にされたからって後をこっそりつけるなんて感心できる事じゃない。
むしろ怒られて当然のことなのに……

「ごめんなさい……」

何だかとても怖くなってしまったあたしは俯いてそう呟いた。ぎゅっと自分の拳を握る。
いたたまれない空気に、この場を逃げ出したくなったその時に。
遠くからお姉ちゃんがため息をついたのがわかった。そして、そっと近付く足音。

「ちゃんと反省なさいね」

ぽん、と頭の上が温かくなった。思わず顔を上げるとお姉ちゃんが穏やかに笑っていた。
お姉ちゃんは怒る時も優しい。お姉ちゃんはいつだって笑ってる。
あたしは嬉しくなって、目の前に立つお姉ちゃんにぎゅっと抱きついた。
仕方ないわねぇ、と呆れながらも優しいお姉ちゃんの言葉にもっと嬉しくなってあたしは笑った。
そのお姉ちゃんの身体の影に白いベッドが見えた。
視線を運ぶと、そこに眠る人の姿。

「事務所のね、先輩なの。とてもお世話になってるのよ」

あたしの視線に気がついたお姉ちゃんが振り返り、そう教えてくれた。
あたしはお姉ちゃんから離れて恐る恐るその人のもとに足を進める。

ベッドの横には四角い機械が置いてあって、わずかに上下する数字と、
光の線が波型に画面を横切っていた。
白いシーツの上に横たわり白い服を着て、その人はいた。
顔の色も、服から覗く腕の色も、髪の色も。
何だか全部が薄くて今にもベッドの白に溶けていきそうに見えた。
よく見ると瞳はゆるく閉ざされているだけで、まぶたの下に黒目があるのがわかる。
見つめているうちにそれは何かの拍子に開くような気もした。
けれどもそれは決して開くことはなく。
ピッ、ピッ、という無機質な機械の音だけがその場に響いていた。

「真宵、初めて会うわよね?ちゃんと挨拶できるでしょ?」

背後からお姉ちゃんの声が届いて、あたしはびくりと肩を揺らした。
振り向いたあたしの顔をお姉ちゃんは不思議そうに見つめ返した。
どうしたの?と優しく聞かれても強張りは解けない。
あたしの両肩に手を置いてお姉ちゃんは促すように微笑んだ。
あたしはお姉ちゃんからまた横たわる人に視線を戻した。さっき見た時と全く変わりがない。
ただ、目を閉じて横たわっているだけ。

「真宵?」
「だって、だってこの人」

───死んでるんじゃないの?

呼ばれた名前にあたしはそう答えた。後ろに立つお姉ちゃんを振り返って。
でも振り返った途端。あたしは言葉を失ってしまった。
お姉ちゃんは凍りついた表情であたしを見つめていた。
それを見て初めて、あたしは自分が何かとんでもない事を言ってしまったことに気がついた。
いつも優しく輝く、お姉ちゃんの瞳が冷たく固まっている。
見ているうちに……まつげがとても細かく震え始めて。
茶色い瞳の表面に薄い膜が張っていくのがわかった。それはきっと、涙のもので。

「お姉ちゃん、泣かないで」

あたしは堪らなく悲しくなってお姉ちゃんにしがみついてそう懇願した。
その声に我に返ったのか、お姉ちゃんはパチパチと瞬きを繰り返す。
お姉ちゃんの腕を掴んで顔を見上げ、でも言う事が見つからなくて、必死に涙を堪えるあたしに
気付いてお姉ちゃんは頷いた。

「……大丈夫よ。泣かないってこの人と約束したもの。泣いたら私、怒られちゃうわ」

微笑みながら言うお姉ちゃんにあたしはびっくりして白いベッドを見る。

「なんで泣いたってわかっちゃうの?だって、目開いてないのに」
「見えてるのよ」

ふふ、と首を傾げてお姉ちゃんは微笑んだ。
その言葉に仕草に、胸が痛くなった。
生きているのに死んでいる人を変わらずに思うお姉ちゃんが堪らなく悲しくて。

「……ほんとに?」

聞いた声がちゃんと言葉にならなかった。
胸の真ん中から悲しい思いがたくさん溢れだしてきて、あたしは思わず頬に涙を落としてしまった。
お姉ちゃんが驚いた顔であたしを見つめた。
歯を食いしばって我慢するんだけど一度溢れた涙は全く止まる気配がない。
本当に悲しいのはお姉ちゃんの方なのに、あたしが泣いちゃいけないのに。
ついにはしゃっくりまで出てきて、あたしは右手で涙を拭いながらお姉ちゃんに聞いた。

「おねえちゃん、あたしも、怒られちゃうかなぁ…?」
「どうして?」
「…泣いたら、怒るんでしょ?このヒト」

身体を動かしてベッドに向き直る。
空いている左手で眠る人を指差すとお姉ちゃんはまた微笑んだ。

「怒られないわよ、真宵は」

言葉と共に、ぎゅっと後ろから優しく抱きしめられた。

「私の代わりに泣いてくれるんだものね。優しい子ね、真宵」

抱きしめたあたしの右肩にお姉ちゃんは小さく囁いた。
栗色の髪が濡れた頬のすぐ横で揺れる。

「大好きよ、真宵。……ありがとうね」

あたしは泣きながら頷いた。───大丈夫だよ、お姉ちゃん。
そう言ったつもりで。
お姉ちゃんの声が震えた事なんて、あたしに比べれば泣いたことにならないから。

あたしは背中にお姉ちゃんの温度を感じながら、その小さな涙が目の前で眠る人に届かないように。
生きながら死んでいるその人に向けてたくさんの涙を送り続けた。

 

●   
・.

 

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思い出のお話、という事でセピア色。(ちょい無理あり)
お見舞いに行ってたかどうかと言えば、行ってなかった気がするんですが。
見舞ってる健気な千尋さんが書きたかったので。
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