シャングリラ


ぼくの記憶はある男の一撃によって綺麗に流れてしまった。
訳のわからないうちに法廷へと立つ内に、条件反射なのか身体に染み込んだ弁護士という職業のせいなのか、記憶を見事取り戻すことに成功したのだった。
でも、その中でも取り戻すことのできなかったものがある。





手に持った携帯電話を見つめた。
諸平野に奪われ、メモリーを全て削除されたそれは掛ける事のなくなった電話番号も一切消え去り、必要な人以外の電話番号しか持たなくなっていた。
元々めんどくさがりな自分にはちょうどいい整理法だったと、真宵ちゃんには笑って言ったけれど。
見つめる内に何だか気持ちが重くなってきて携帯を布団の上に投げ出し、ついでに自分の身体も投げ出した。

「あぁあ……」

なんとも間抜けな声が喉から漏れる。
携帯電話から消えた記憶は川に流れてしまったようだと思った。それはまるで笹舟のように。
止めようにも追いつかない。手を伸ばしてもすくえない。
それでも、記憶の大部分を支配し流れていかないものがひとつ。奴の存在。紙切れ一枚残して消えていった男の。
あの男の事を思うと今日も眠れないのだろう。
あぁあ。また、声が漏れた。
携帯のメモリーと一緒に君の記憶も消えてくれたらよかったのに。





御剣を救ったつもりになっていたのは、ぼくの方だけみたいだ。
現に御剣は忽然と姿を消してしまった。誰にも理由を告げずに。たった一人で。物騒な書置きひとつで。
ハッピーエンドを迎えたと思っていたぼくらの関係にこんな未来が待っているなんて、御剣が消えるまでぼくは考えてもいなかった。

(なにが、『検事・御剣怜侍は死を選ぶ』だよ)

暗闇の中で目を凝らし、そう悪態を付く。
検事としての死を選ぶ──それは、狩魔検事が原因なのだろうか。彼が長年師と崇めていた老検事。それをぼくが真犯人だと暴いたから。
DL6号事件の真実。それは御剣が想像していたものとは全く異なるものだったのだ。
裁判の後御剣はこう言っていた。自分が弁護士になればよかったと。
その時は笑っていたけど、よく考えてみれば検事としても目標を失ったからこその発言だったのかもしれない。

(そんなの)

目尻に滲みそうになる涙を止めるつもりで、思い切り天井を睨み付けた。
そんなの、どうでもいいじゃないか。そんな事を言ってもお前は検事なんだし、今までしてきた事が全部間違いになるわけじゃない。そこから逃げて何になる?
胸を張って歩けよ。前を見て歩けよ。
希望の光なんてなくたっていいじゃないか。
どうしてもそれが必要というのならば、ぼくがそれになってやる。





眠りを探そうと目を何度閉じても、意識は天井の辺りをずっとさ迷っているように思えた。
仕方なく一旦目を開いて右手を両目に重ねる。

(御剣)

心の中で名前を呼んだ。今どこにいるのかもわからない相手の名前を。
幸せだって叫んでくれたらよかったのに。
意地っ張りな君の泣き顔も見せてほしかったのに。
そんなことでぼくが君に呆れるとでも思った?
たとえ歩く道が曲がっていたって、真っ直ぐだったとしても。
転ぶことぐらいはあるだろう。それは何も君だけじゃない。
そうなったとしてもぼくは君の手を引っ張って、決してはなすことなんかしないのに。

「あぁあ」

また声が漏れた。溜息じゃない、嘆きの声。
朝が来るまでに何度漏らすことになるだろうか。
君を思うと今日も眠れない。
そんなぼくのことを情けないってあの顔で叱ってほしい。
ぼくのこと、叱りながら愛してくれよ。頼むから。







チャットモンチーの曲が元ネタです
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