「ショーダウンだ」
ぼくの一言に客は逆上した。勢いよく立ち上がり、こちらに掴みかかろうとする男の前に手持ちのカードをばら撒いてやった。カードの並びはストレート。決して強い役ではない。しかし、男の手にしているカードはその役すら作れていないようだった。男は激しい憎悪の目で座ったままのぼくを睨み付けた。
紙と紙同士という実際には何の力もない戦いとはいえ、この部屋ではカードの並びが何よりの力を持つ。それは一時間前にこの部屋へと足を踏み入れた男自身もよく知っていることだった。結局、男は何も言わずに部屋を出て行った。赤と青のカードの散乱するテーブルの上に万札をまるでごみの様に投げ捨てて。
勝負道具であるカードには手もつけずに、ぼくは札を集めて勘定する。週末にしては少ない気もしたけれど、ゲームだけで稼げることを考えたら贅沢は言っていられない。数えた後はおざなりにパーカーのポケットに捻りこむ。
七年間無敗の男に挑む客は後を立たない。この部屋に来てゲームを繰り返すだけで、簡単に金は懐へと転がり込んでくる。この店に来る前はぼく自身、勝負事に強いという自覚はなかったけれど、ポーカーというゲームを知れば知るほど自分に向いていると思った。
相手の表情で手の内を読んだり、大げさなアクションで相手を惑わしたり……やっていることは結局、以前と特に変わらない。ただ、この胸には何のしるしも輝いていないというだけで。
もちろんゲームには運もある。本来ならば自分の駆け引きの上手さを棚に上げるのではなく、神に感謝するべきなんだろう。
(神、ねぇ……)
頬杖を付いたままふっと笑う。
そんなものいやしない。七年の間に何度そう思ったことか。
それにもし、本当に神がいたとしたら。ぼくは今こんな所にはいないだろう。数年前までは確かに、ぼくには女神がついていた。でもその女神にもいい加減愛想を尽かされている頃だと思う。
壁にある時計を睨む。思いのほか時間が余ってしまった。先程の客に当てた時間は二時間。次の客がこの部屋に降りてくるまでにはまだ一時間近くあった。完全に予想外だ。テーブルの上に視線を落とす。久々にやりがいのある相手だと思ったのに。
やりがいのある相手?
指が無意識に赤いカードを選び取ったところでふと我に返る。なぜ自分はそう思ったのだろう。相手を思い返して……笑ってしまった。
自分は相手の顔など全く覚えていなかった。勝負を終えれば全てを忘れる。そのはずなのに、記憶の中に引っ掛かっている部分がひとつだけ。
薄い色の細い髪。それは、ある男のものにとてもよく似ていた。
ひくりと喉がわずかに鳴った。純粋に可笑しかった。あいつに似ているから、期待した。あいつと似た髪型の男が、自分と対面する位置についた。ただそれだけのことで。
「馬鹿らしい……」
髪型がほんの少し掠っているだけの男に一体何を思う。今度は声に出して呟き、笑う。ここを法廷か何かと勘違いした自分を。もう戻れない場所、戻れない人を執拗に追う自分を。
ぐしゃぐしゃとさっきよりも乱暴にニット帽越しに頭をかく。ああ、嫌な気分だ。何がとは言わない。言わないけれど、気分が悪くて堪らない。帰りたいのに勤務時間は終わっていない。時間が余ってる。これ以上酔った人間を相手するのも嫌だ。舌打ちがでる。
ふと視線を落とした先にあるものを見つけ、ぼくはあることを思いつく。この部屋には生憎何も設置されていない。あるのはカードと、それを捌くテーブルと、自分の身ひとつ。でも思いついた暇つぶしには道具なんて何も必要がなかった。必要なのは自分と、自分の手と、ほんの少しの妄想。
やんわりと前を握ると徐々に熱くなってくる。いい年していい反応をするそこに苦笑してしまう。ご無沙汰だから、と自分に言い訳をして前を開いた。こんな生活、何かご褒美でもなければやっていられない。
さて、誰を相手しようか?
目を閉じて考えてみるも、浮かんでくるのは幼い風貌を持つあの子ぐらいだった。最近はテレビも見ていないから適当な芸能人も浮かばないし、かといって今の自分には身近にいる女性もいない。唯一いる知り合いの女性は刑事なんて色気のない職業についている。
手詰まりになったぼくは、豊かな肉体を持つかつての師匠を引っ張り出そうとしてやめた。今ではもう完全に年下となってしまった彼女だけれど、こんなことに利用してしまったら後でどんな説教を食らうか。現実には有り得ないことなのに、ぼくはそれを恐れて早々に彼女を諦め次に移る。
過去の扉を開いてやってくる女性たちは誰も皆、七年前で時が止まってしまっていて、無邪気な顔をこちらに向けては笑顔を作る。何だかばつが悪くて次々と却下していく。
何人目かでようやく、笑顔を作らない女性を見つけた。ああ、彼女にしよう。彼女は元々綺麗な顔立ちをしていたから、きっと今ではかなりの美人になっているに違いない。
「馬鹿な男にしばらく付き合ってもらうよ……狩魔冥」
そう呟いてから性器を扱き出す。七年前の彼女が頭の中で服を脱ぎだす。白い肌にそぐわない黒い下着を想像すると手の中の性器がさらに熱くなった。
まさか、セックスの最中に鞭は打たないだろうな。
そんな馬鹿な考えに一人笑ってしまった。
輪にした指の真ん中に性器を入れてピストン運動を何度も何度も繰り返す。
「───ふ…ぅッ」
年のせいか、なかなか絶頂はやって来なかった。ぼくはさらに自分を追い立てる。
法廷で何度となくぶつけられた声を思い出す。高く、短い声を思い出す。黒い手袋に包まれた彼女の白い指を想像する。彼女が組み敷かれているのを想像する。二つの身体が絡まりあっているのを想像する。
彼女の細い髪を撫でるようにして通り過ぎていく指。肌の上を優しく滑る手。彼女の指が相手の肌を求める。相手の指もそれに応える。彼女を抱く腕。それを持つのはぼくもよく知っているあの男。
二人はキスをする。キスをする。キスをする。
焼け付くような感情を覚えた胸が悲鳴を上げる。それを無視して手の動きを早めた。そうすれば違う世界が見えてくる。
視界が眩しくなり、全てが白ける。その瞬間に。
「……るぎ…っ」
口を割って落ちたのはただ一人の名前。
名前の欠片を呟いただけで枷が外れてしまった。乱暴に蹴られた椅子が派手な音を立てて倒れた。上半身をテーブルにつき、腰だけを高く上げて後ろに自分の右手を移動させた。放ったばかりの精液が腿の内側を伝っていく。
白く濡れた指の腹を繊細な場所へと擦り付けた。固く窄まってはいたけれど、何度か撫でててくるうちに少しずつだが熱を帯びてくるのが何となくわかった。中指を自分の方へと曲げてみた。以前は他人の性器を、最近は自分の指を咥えてきた浅ましい身体はいとも簡単に与えられた指を食べた。
中途半端な動きが一番駄目だと、何度も繰り返した結果にぼくは悟っていた。痛みを回避するために緩慢になった指がどうしても理性を呼び覚ましてしまう。相手が存在しない自慰だということを思い出させてしまう。だからわざと雑に掻き回した。その方が、不器用だった指を連想させてちょうどいい。
少しだけ含ませた指先を出し入れをさせる。何とも言えない湿った音。不自然な格好のままぼくは呻いた。テーブルにうつ伏せのまま、左手は自分の性器を、右手は自分の後方の穴を責め続ける。一度射精を迎えた性器は前立腺への直接的な刺激によりすでに先走りの液を零しており、硬度も次第に増していく。頬を冷たいテーブルの表面に擦り付ける格好は腕も関節以外にも様々な場所が痛むけれど、それがまた無理に抱かれているような気がして逆に興奮した。
新たな快楽を欲したぼくは出しては入れる動きに加えて、中で少し回すような動きを始めた。性器がある側の壁に少しでも指が触れると、一気に強い快感がぼくを満たした。
出して、入れて、中で、かき混ぜて。その間にも右手は性器を擦り上げる。性器に塗りたくったローションは相変わらず強い粘度を保ち、ぬちゃぬちゃとやらしい音を発する。潤いと熱を帯びた雄はすぐに直立した。
「みつるぎ……っ」
知らず知らずのうちに溢れてしまう名前。
自分でも驚いて一瞬だけ目を瞠る。けれどもぼくはすぐさま目を閉じ、自分の中を擦る感覚に身を委ねる。前立腺を刺激すればすぐに快楽は訪れる。しかし、そうすることで意識と理性にわずかな隙間が生まれて、そこにすかさずある一人の存在が入り込んできてしまう。追い出してもしつこく入ってくる。
首元にまでせり上がってしまったパーカーを思い切り噛んだ。それは浅ましい自分に対する戒めだ。
呼んではいけない名前。もう、求めてはいけない存在。
力加減を忘れた中指が強くそこを押さえ、とてつもない刺激が脊髄を駆け抜けた。浅い部分どころか内臓全体を掻き混ぜられているような感覚。噛み締めていたはずの唇が何かを求めて開く。自分の意志とは無関係に、手の動きに合わせて声が漏れる。あまりの刺激に気が遠くなっていく。
「…み……つ…ッ!」
最後まで言いそうになる名前を寸前で堪えた。頬の肉を強く、引きつるくらいにテーブルへと擦り付けた。コントロールができない自分の声に涙が浮かぶ。強力な刺激で今にも達しそうで、息もまともにつけないほどに気持ちがいいのに。
なのに、なのにどうして。
たった一つの名前だけを胸の奥で反芻してしまうのだろう。
何度も、何度も、七年間も、離れてしまった相手を、何度も、馬鹿みたいに、何度も、何度も。
奥底からこみ上げてくる何かを手にするため、ぼくはさらに激しく自分を責め立てた。額をテーブルに強く押し当て、尻をもっともっと突き出して、その中に指を突き入れて。熱く昂った性器を手のひらで包み込む。そして亀頭を爪で抉った。ビリッとした痛みともつかない快楽が背筋を上った瞬間。
自分の指と手の動きにぼくは射精していた。
「あ、御剣、みつる、ぎ…っ…!」
先端から飛び出す精液と連動するように、唇からも途切れ途切れの名前が溢れ出る。必死に堪えていたはずの名前が溢れて溢れて。止まらない。精液の勢いも止まらず、ぱたぱたと床に落ちていくのがわかった。
苦しくなって口を大きく開いた。そんなことをしても何も出てこない。堪らなくなって無理矢理声を出した。獣のような唸り声が出た。まともな声が出なかった。そしてぼくはそのまま激しく泣いた。
会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい!
御剣。
御剣。
御剣。
会いたい。
たったそれだけを繰り返す。ひとつの名前とひとつの願い。
この願いが叶えられることはもうないと、わかっている。自分と御剣はもう何もかもが違ってしまった。会いたいという気持ちだけを理由にして会いに行けるほど、自分はもう。
精液に塗れながら、ぼくは泣いた。泣くことくらいしかできなかった。
深く項垂れたまま夜明けを待った。
青臭い精液の臭いが狭い部屋に篭り、何度となく戻しそうになったけれども、ここの他に行く場所もなかった。職場を放棄することは許されていない。こんな仕事場すら解雇されるなんて流石に勘弁してほしい。ぼくはただ、じっと朝が来るのを待つしかなかった。
抱くのではなく抱かれる妄想を糧に行う自慰は、終わった後の疲労感と虚しさが通常のものとはもう比例にならない。それに加えて今夜は激情を言葉にし過ぎてしまった。やりきれない思いと罪悪感はぼくの身体を絶えず切り刻んでいるように思えた。奴に身近すぎる人物を相手に使ってしまった事に対する罰なのだろうか。
懺悔のように両腕を組み、その上に自分の額を押し当てて。時の流れの遅い夜をやり過ごす。
もうどれくらいの時間がたったか、わからないほど時間が経過したその時に。
「!」
衣擦れの音。足音。が、した。素早く顔を上げる。滲んでいた視界に誰かの影が過ぎった。思わず立ち上がる。
「御剣……?」
馬鹿な、と思いつつもそう問い掛けられずにはいられなかった。言った途端に気のせいだと知る。けれどもぼくは息を潜めて周囲を窺った。
奴がいた。こんな狭い部屋の中で間違うわけがない。すぐ近くで息づいている。御剣はまだこの部屋にいる。気のせいのわけがない。君の匂いもすぐ思い出せるのに。
しかし、いくら待ってみても御剣が姿を現すことはなかった。急激に緊張を増した身体の強張りが解けて足の力が抜けた。椅子に座ることすらうまくできなくなってそのまま床へと倒れこんだ。自分の必死さが愚かに思えて笑える半面、絶望に深く落ちていってしまいそうだ。
持ち上げた右手で両目を覆い、一旦視界を自分の袖で閉ざす。
おかしいな。ぼんやりとそう思う。確かに存在したように思えたのに、君が。
「みつるぎ……」
わずかな希望を持ってそう呼び掛けてみた。同時に腕も退かせてみる。再び手にした視界に、御剣怜侍の顔が映っていることを期待して。そんなわけがないと自分で自分を否定しながら。
瞬きをする。
そこには小さな窓と薄汚れた天井。それしかなかった。もう一度瞬きをする。視界をリセットする。でも、何も変わりはなかった。自分が求めていたもののひとかけらもない。何度瞬きを繰り返しても繰り返しても。
何も見えてこない。何もない。
「はっ」
嘲笑う声が何もない部屋にこだました。御剣がまだこの部屋にいる?そんな、馬鹿な。そう気が付いたらあっさりと次の解答は弾き出された。
ああそうか。御剣が住んでいるのはここじゃない。ぼくの中か。
わかると同時に自分の中に居座る男の残影を心底憎んだ。なあ御剣。昔のように呼び掛けてみる。お願いだからさ、もう。
いい加減ぼくを巣食うのはやめてくれ。
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