思い出されるのはいつもなぜか、断片だけだった。
それは例えば瞬きをする寸前の緩んだ黒い瞳や、優しく頬を掠める髪の先の感触。
抱いた時に感じる自分より少しだけ熱い体温、柔らかい力で握り返す指、屈託なく笑う声。
私は彼の断片を抱いて海外を巡っていた。
多分、私は部分的に思い出すことによって自分を誤魔化していたのかもしれない。
彼が自分の手を離れているという状況に、飢え苦しむ心を。
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長い息を吐き出し、ソファに身を沈める。
気だるさが全身を包み込んではいるものの頭の芯ははっきりと冴えていて、何とも言えない満足感を感じる。
目を閉じて再度息を吐き出すと私は口元を緩めた。
朝早くこの国に入り、裁判所に直行して審理を傍聴すること数時間。
私はようやく、滞在するホテルの部屋へと辿り着いたのだった。
体力的にはハードなものだったが、疲れていることを自覚する間すら惜しかった。
裁判を傍聴するだけでこんなにも充実感があることを、私は新たな国を訪れる度に認識する。
それと同時に、今までの自分がいかに足りなかったのだと何度も気付かされる。
完璧という名において振舞ってきた自分の至らなさを目の前に突きつけられても不思議と屈辱は感じなかった。
あの頃の……天才検事と持ち上げられていた二十歳の自分が今の私を見たらきっと目を剥いて驚くだろう。
数年前には考えられなかった、今の状況。
ただひたすらに有罪判決だけを追い求めていた頃には充実感など感じたことなどなかった。
有罪判決をもぎ取っても、その後胸に去来するのは虚しさと悔恨と罪悪感。そして自分に対する嫌悪感。
長い間悪夢にうなされ、検事としての自分を恥じて死を選んだことさえある。しかし。
今は日本では飽き足らず諸外国の法廷を次々と巡るまでに、私は検事として堂々と生きるようになった。
全てにおいて満たされた日々を送り、何も足りないものはない。……ないはずだ。
ふと指を当てた自分の眉間にしわが寄っていることに気付いた私は、唇を歪ませて苦笑する。
───私も随分、欲張りになったものだな。
父親をこの手で撃ったと思い込み、全てを遠ざけて生きていた。
胸に訪れる様々な感情を。同情、迷い、不安、憎しみ。最後に人を慕うその心でさえも。
有罪を勝ち取るためには全て無駄なものとし、目を逸らして生きていた。……そして何よりも。
罪を犯した自分が父親を差し置いて幸せになることなど決して許されないことだと。
そう思い、自分を抑制して生きてきたはずだったのに。いつの間にこんなに我侭になったのか。
私の足枷を外した男は今、ここにはいない。
彼の顔を思い出した途端、どうしようもなく息が苦しくなった。
気がついたら片耳に受話器が当たっていた。
無機質な音が連続して鳴り、遠くの彼を呼び出す。 ぷつ、と空気の切り替わる音。
『もしもし?』
「───成歩堂か?」
何の変わりもない彼の声に私は、急く気持ちを抑え低い声で問い掛けた。
成歩堂は海外からの突然の電話に驚いたものの、嬉しげな声で私の名を呼んでそれに答えた。
『珍しいな、電話してくるなんて』
「うム。時差の関係でなかなかできなかったのだが。ちょうどいい時間帯だったのでな」
……何も、言い訳をする必要はないのだろうが。ついつい素っ気無い返答をしてしまった。
『ふーん。こっちは今、夜だよ。今はどこにいるの?』
成歩堂はそれでも楽しそうに私の様子を尋ねてくる。
今は遠い、受話器の向こうにいる恋人の笑顔を思い返し、張り詰めていた心が次第に 穏やかになっていくのを感じた。
ふと視線を動かすと、ベッドの脇に置いてあった鏡が私自身の姿を映し返している。
何気なく視線をそこに留め、目を凝らした瞬間。
私と目が合うとその鏡の中の人影はぎょっと目を見開く。 空いている方の左手の手のひらを口元に当て素早くそこから目を逸らした。 全身の血が全て頭に上ったような錯覚に陥る。顔を俯かせ、必死に表情を噛み殺した。
(───何という顔をしているのだ、私は!)
『御剣?どうかしたのか?』
「す、すまない、電話が遠いようだ」
『そうか。まぁ実際、遠くにいるからなぁ。大丈夫か?』
成歩堂は何の疑問を感じる様子もなかった。 呑気な調子で問い掛ける言葉に首を振り、私は密かに深呼吸をした。
だらしなく緩んだ自分の顔が恥ずかしくて堪らなかった。ただ声を聞くだけで感情が激しく揺れ動く。
いとも簡単に平常心を失ってしまいそうな自分に驚き、私は受話器を持つ手に力を込める。
こんなにも相手を求めていた自分がとても恥ずかしくて、努めて冷静な声を作る。
成歩堂は私の動揺に全く気がつかずに、嬉しさを言葉じりに滲ませて受話器の向こうで笑っていた。
態勢を立て直そうと慌てて話を変える。もちろん、口調は冷静を装ったまま。
『君は何をしていたのだ?』
「え」
何気ない質問にうろたえたのは相手の方だった。穏やかだった彼の声が突然揺らぎ始める。
成歩堂は私の言葉に何もしていないよ、とすぐに答えたものの明らかにその声は動揺している。
……何か私に後ろめたいことでも考えていたのだろうか。
遠く離れる国にいる彼の動揺と、不安と疑問が私の心に重く圧し掛かる。
成歩堂はテレビを見ていただけと言い訳をしたが口ぶりははっきりしなかった。
このまま流すわけにはいかない。どう証言させようかと、尋問の言葉を次々と頭の中に思い浮かべる。
『何もしてないよ。ただ…』
「ただ?」
言い淀んだ彼の言葉を私はきつい口調で繰り返す。
イライラと一本の指を自分の膝の上で上下に動かしながら。
『……君がいないからさ』
次に落ちてきた成歩堂の言葉に、私の指の動きはぴたりと停止した。
成歩堂にとってもその一言は計算外のことだったらしい。言うつもりのない本音をぽろりと零したような。
受話器に当たる吐く息のリズムが一瞬だけ狂う。
しかし、そのすぐ後に穏やかな呼吸音が耳に届いた。そして彼はとても小さな声でこう呟く。
『君に会いたいよ』
「…………」
ふっと頭の中の全ての感情が消えた。
心の奥底の方から、抑え込んでいた感情が溢れ出てくるのが自分でもわかる。
やがてそれは形となって私の身体に影響を及ぼし始めた。
忙しさにかまけて性欲を処理することすら怠けていたのを、今更ながら思い出す。
何て事はない。性欲のその向かう矛先の人物を自らずっと遠ざけていただけの事。
じん、と音もなく疼く下半身。その直接的過ぎる反応に己のことながらも思わず苦笑が漏れる。
彼は気がついているのだろうか。
私の気持ちの枷を外すのはいつだって君の他愛の無い一言や仕草で。
長い間消えることなく、そして炎を発することもなく長い間くすぶっていた私に成歩堂は薪をくべたのだ。
俯き笑いを喉の奥で殺すと、乾いた唇で彼の名を低く呼んだ。
『成歩堂。──今は自宅にいるのか?一人か?』
自宅に一人ということを何度も確認すると、成歩堂は怪訝な口調ながらも一人だと答えた。
「では、服を脱ぎたまえ」
『はぁっ!?…そんなことできるわけないじゃないか!』
成歩堂の声が盛大に裏返った。まあ、当然の反応と言えば当然なのだが。
受話器にかじりつくようにして反論する彼の姿が見えるようだ。
けれども私は全く臆することなくもう一度命令をする。今着ている服を脱げ、と。
『何考えてるんだよ!』
成歩堂の言い分も拒否の言葉も予想していたものだった。
あらかじめ質問されると判っていたその言葉に私は一言だけ返した。
「無論、君のことだ」
あっさりと言い切られ、受話器の向こうで成歩堂が絶句したのがわかった。
受話器は耳から離さないままにもう一方の腕を持ち上げる。そのまま足の間に当てた。
布の上からはわかりにくいが、確かにそれは普段の時よりも体積を増している。
姿の見えない電話越しの彼に欲情するとは……自分でも終わっていると思った。
どことなく感じる後ろめたさと羞恥心を無視して、布ごと自分のものを握り締める。
そして遠くにいる彼に懇願した。
「君に触れたいが…それはできない。せめて、君を感じさせてはくれないか」
『………』
彼のその沈黙はどのような意思を表しているのか。
考えることも判断することも予測することもできなかった。
今はただ、手のひらの中で息づく己の欲望を解放させることだけを望んでいた。
『御剣……』
数秒後に届いた彼の声はすでにもう、熱が上がっていて。
いつもなら皮肉めいた言葉でそんな彼をからかうのだが、今は時間が惜しかった。
この遠く離れた空間を何としても埋めてしまいたかった。
『御剣も脱げよ』
ごそごそと何かを探るような、微かな音が向こうで響いた。
きっと遠くにいる彼も私と同じ格好で受話器を握り締め、同じ状態で相手の次の声を求めているのだろう。
『ぼくだけなんて嫌だ。……寒いしさ』
言い訳のように足された言葉に思わず笑ってしまった。
君は可愛いな、と囁くと馬鹿にするなよ、という可愛くない答えが返ってきた。思わず口元が緩む。
受話器を耳に当てながら指を滑らす。右手は動かさないようにして衣類を少し引き下げるとそこだけを露出させた。
弓なりに持ち上がり固くなった自身に指を這わせ、順々に刺激を与えていく。
「成歩堂。……わかるか?私が君をどれほど欲しているか」
見ることも触ることもできない相手に今の私の様子などわかるはずがない。
それでもそう問い掛けると成歩堂は息を吐き出しながら途切れ途切れに答える。
『わかるよ、御剣……』
いつもは他人の唾液で湿る唇を、舌を使って自分で濡らす。
時々意地悪な言葉で彼を責めながら私は行為に没頭していた。遠い国にいる彼もまた同じように応える。
言葉を交わしていても互いの姿が見えないという事実が、いつもは決して無くなる事のない羞恥心を
薄めているのだろう。荒い息を吐き出しながら私はさらなる命令を彼に下す。
「成歩堂……次はどこか、わかるな?」
『いや…だ、御剣…』
自分で中を触るよう指示すると成歩堂はさすがに拒んだ。
躊躇いながらも指をそこに触れさせ、思い悩む彼の姿が見えるようだ。
上気した頬、自尊心と性欲に葛藤し揺れる瞳。短い呼吸を吐く唇は赤く、そして唾液に濡れているのだろう。
手が当てられた場所はもうすでに様々な液で濡らされていて、今か今かと指の侵入を待ちわびている───
「成歩堂」
思わず名を呼んでしまった。急かすつもりなど無かった。しかし彼はそれを命令だと取った。
短く上がる、まるで悲鳴のような声。
自分の指を飲み込んだのだろう。つられて私の指も反応した。
高まるそれに握力がかかり、快感が背筋を駆け上がった。
『───あ、…っ』
抑えた喘ぎが受話器を通して聞こえてきた。
彼の中に快感を与えられない代わりに自分で自分を扱いて慰める。
受話器の向こう側で自分の指を咥え込んだ成歩堂がさらに激しく喘いだ。
今まで断片的にしか思い出せなかった彼が、次々に脳裏に現れては形を作り始める。
眉根にしわを寄せ、何かに耐えるように必死に声を殺す。
意味もなく曲げられた指が私の胸に触れ、肩を掴み、そのまま背中へと回されて。
抑えも効かずについに零れる甘い声、その唇に夢中で舌を這わせる。
突き上げて、もうこれ以上入り込めないぐらい奥に自分を差し入れて揺さ振って。
『もっと、ぼくを呼べ…っ…御剣、みつるぎッ…!』
「成歩堂…っ……」
絞り出すような成歩堂の声に私は必死の思いで答えた。 距離が近すぎて、握り締めていた受話器と唇がぶつかる。
その固い感触に驚いた。
繋がっている間の、成歩堂の弾力を返してくる唇とは明らかに違う。
私と彼は今、確かに同じ熱を所有しているというのにそれを重ねることができない。
途方も無い距離にどうしようもない切なさを感じ、思わず息を詰めたその次の瞬間。
『みつる───』
成歩堂の声が遠く途切れ。下肢が痙攣する。
「!」
手のひらに生暖かいものを感じたのが先だったのか、それとも後だったのか。
気付けば通話は途切れ、ただ無機質な音を受話器は発していた。 今までの世界はまるで夢のように消える。
吐き出した精液を手のひらにすべて受け止め、長く息をついた後。私は再び電話に向き直る。
しかし、私は受話器を手に取ろうとはしなかった。達した後の薄らぼんやりとした思考ではろくに 会話を作り出せないだろう。それはきっと遠くにいる彼も同じで。
目を閉じて顎を持ち上げる。私の体重が移動したのを受け、古いホテルのベッドが切なげな音を立てて軋んだ。
ああ、いつもならば汗ばんだ唇を軽く触れ合わせるだけで足りていたのに。
言葉など交わさなくとも、互いの流した汗や体液を気にも留めずに抱き合えばそれでよかったのに。
精を吐き出した後、言い様の無い虚無感に襲われるのはいつものことだ。
それがここまで強く胸に迫るのは、自慰的行為が久方ぶりだったからなのか?それとも───
私はため息をひとつつくと、重い腰を持ち上げる。
動くのも億劫だったが、いつまでもこのままでいるわけにもいかない。
片手を汚す精液を零さぬよう気を遣い、狭いユニットバスに向かう自分の姿がひどく情けなく思えた。
透明の水と混じり、白い液体が流れ落ちていくのをただぼんやりと見送る間にふと我に返る。
顔を上げる。
目の前に自分がいた。
鏡の中に映る自分は、紛れもなく今の私。犯した罪に泣いていた少年でも不遜に振舞う天才検事でもない。
私の足を止めるものはもう何も存在していないのだ。
無言で見つめるうちにふつふつと感情が波立っていくのが感じられた。
我侭に生きると決めたのだ、私は。
それを教えてくれたのは他の誰でもない。───成歩堂、君だろう?
赤いスーツに身を包んだ男はこちらを見つめたまま独善的な笑みを浮かべる。
私は日本へと最速で帰国できる飛行機を探すため、部屋に戻るともう一度受話器を持ち上げた。
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