「迂闊だったんだ、ぼくも」
思ったよりも彼の口調はしっかりとしていた。息を切らし、彼の事務所へと辿り着いた私を一瞥すると成歩堂はふいと視線を窓の外に向けた。逆光で彼の表情がよく見えない。が、その唇の端にいまだ血の滲む傷を見つけた途端、私はその場に立ち尽くしたまま呆然としてしまった。
検察局の中でも優秀と呼ばれ上に近い立場に立てば、周辺で起こったほとんどの事件の概要や諸情報は耳に入ってくる。その事件を起訴しようがしまいが、関係なく。そして私が担当になろうともならなくとも。
若手敏腕弁護士であり、親友であり良きライバルである成歩堂が、最近とある事件を追っていることも当然耳に入っていた。
知っていたものの、私は検察官であり弁護士である彼とは相反する立場にある。
その話を彼と直接することもなく、自分の業務に没頭する日々を過ごしていた。──今朝までは。
私は彼の真摯さとその無鉄砲さを見くびっていたようだ。正反対の職業に就きながら、けれども一番の側でそれを知っていたはずなのに。
「起訴、は……」
呆然としたままだった私の唇から短い問い掛けが漏れた。成歩堂の眉がきつくしかめられる。
「しないよ」
ぎゅっと成歩堂が唇を噛み締めたのがわかった。できるはずがない。そんな風にも聞こえた。
できるはずもない。私もまた彼と同様のことを思っていた。
──同性に暴行されたなどと。しかも複数の相手に。そんなことを公の場で証言できるはずもない。
成歩堂が真犯人として告発しようとしていた相手は、強大な権力を持つ会社の社長であった。
今まで何回もそのような事態に陥ったことがある。しかし彼はその強運のおかげか、最後にはいつも勝利をあげていた。だからこそ私も何も思わなかったのだ。きっと、今回も彼は全てを光の元に導くだろうと。
その正義感がすべての者を救うのだろうと。
しかしそれは過信でしかありえなかったのだ。このような出来事が起こってようやくそのことに気が付く。
「成歩堂」
かけるべき言葉は見つからない。自分の中に言葉がひとつも見当たらない。
成歩堂は私の呼び掛けにすら顔を歪めた。どこかが痛むのだろうか……?私は彼にどうしてやったらいいのだ?
「……ごめん、御剣」
深い息を吐き出しつつ成歩堂は呟いた。右手を持ち上げ、自分の顔半分を覆うと側にあったデスクに寄り掛かった。その憔悴しきった様子に、無意識に手が伸びる。彼の支えになろうと、手が。
成歩堂は左手でそれを拒絶した。
目を閉じて何かに耐えるように。まるで全てを、私を拒否するように。成歩堂はゆるゆると首を振る。
「もう帰ってくれ」
その仕草と言葉に私は目を見開いた。
彼の左手がゆっくりと動き、その右手へと重ねられる。両手で自分の頭を抱える格好になった成歩堂は掠れた声で言った。
「ぼくはもう……君の親友なんかじゃないよ」
「どういう意味だ?」
突き放される言葉。私は思わず口を開いた。彼の意図がわからなかった。今にも倒れそうなその状態を放っておくことはできない。私は彼の支えであるはずだ。──それは、私の思い込みだったと言うのか?
「ごめん……違うんだ、ごめん」
成歩堂は震える声で否定をした。しかしそれに続く言葉はなくまた口を閉じてしまう。
真意を測りかねた私の足が一歩前に進んだ。再度、そっと手を伸ばす。
「!」
しかしそれは彼の腕に触れる寸前に振り払われてしまった。
はっと息を飲んで彼を見つめた私と、怯えに顔を強張らせた成歩堂の目が正面から合う。
噛み締められた唇が小さく震えている。私が視線を止めたことに気が付き、彼は素早く自分の手で口を隠した。
「頼むから見ないでくれ」
泣きそうな声でそう懇願され、私はまた息を飲む。
「こんな……」
隠すその手ですら震えている。曇った声を途中で止めて成歩堂は沈黙した。──こんな、自分を見ないでほしい。
彼の悲痛な思いが伝わってくる。
私と、自分と。同等に思っていたからこそ、彼は私を拒絶している。
こんな弱っている自分を見せることは彼のプライドが許さない。それは私も同様だ。再会した頃、あの事件が起こった前後。自分の弱い部分を否応なく突いてくる彼をどんなに疎ましく思ったのか。
成歩堂は怯えた様子で息を吐き出していた。そしてまた、全てを拒絶するように自分の頭を抱え込んだ。
「……成歩堂」
私にできることと言えば、その場に立ち尽くしたまま彼の名を気遣わしげに呼ぶ事だけだった。それが彼の負担になろうとも。
大切に思っていた。この、執念のような情熱を持つこの男を。
逸らされることなく、そして逸らされることを恐れもせずに真実を追い求めるその姿勢を。
私はそんな彼に嫉妬し、同時に尊敬し、お互いに信頼し合い高めあっていくものだと思っていた。
背中合わせでもいい、ずっと、この先も共に歩んでいくものだと。
愛情に限りなく似た、そしてそれだけではない感情をずっと彼に抱いてきていたというのに。
「御剣、ぼくは」
ぽつりと成歩堂が呟く。瞳は固く閉じられたまま。彼を見つめ続ける私に向かって成歩堂は言う。何かを諦めたように、絶望的な声で。
「ぼくはもう」
成歩堂、違う。
「前のようにはなれない」
そんなはずがない。
「無理、だ」
違う。
「……君の前にはもう立てない」
──なぜだ!
激情と疑問が自分の中で弾けた。気付けば震える成歩堂の瞳が私を畏怖して見上げていた。
ほぼ無意識に彼の手首を掴み、私は彼に向かって声を張り上げていた。
「成歩堂、そのようなことは決して……」
己に迫る強い力に成歩堂の顔が引きつる。彼の脳裏にはきっと、恐ろしい記憶が鮮明に蘇っているのだろう。無遠慮な者たちに暴力で屈服させられた瞬間を。
「無理だって言ってるんだよ!……はなせ!」
悲痛な声が胸を突く。掴まれた腕を拳にし、成歩堂は私の胸を殴った。痛みに力が弱まる。身を引いた成歩堂が両手で私を押しのけようとした。その彼の手首に色濃く残る痣を見た瞬間。

自分の中で何かが千切れた。



「成歩堂……成歩堂……」
唇を指でなぞる。執拗に何度も。浅い息を吐き出すその唇を、いとおしげに何度も何度も。
それから逃れたいのか、無理に横を向こうとする頬を強く掴んで捕まえた。開いた隙間から今度は指を滑り込ませる。唇をそれ以上閉ざせないように、わざと自分の指をしゃぶらせる。歯を立てれないようにゆっくりと動かして口内にある柔らかな舌を弄んだ。
「ンッ!……ふ、ン、ァ…」
目に涙をためて成歩堂は私を睨む。自分の指を濡らす彼の唾液の温度に私は興奮した。
小刻みに腰を揺らす。中に収めた自分の存在を、組み敷かれながらもまだ必死に逃げようとする成歩堂に思い知らせるために。
「はッ……なるほ、ど……」
自分も浅い呼吸を吐き出しつつ、動きをさらに激しくさせる。彼の中から引いては押し込む度にぐちゅぐちゅと濡れた音が室内に響いた。
成歩堂の黒い髪が汗で湿って、黒艶が綺麗に輝く。彼の身体の所々に存在するまだ赤く滲む傷。両手を縛める明るい色のネクタイ。床に散乱する青いスーツと白いシャツ。上気した頬と唇、黒々と濡れる瞳。
その全てがひどく淫らで、まるで自分を誘っているように見える。
私はひたすら行為に夢中になった。
右足の膝裏を掴んで自分の元に引き寄せ、肩に掛けさせる。成歩堂の顔が苦しげに歪み、結合部がまた新たに卑猥な音を立てた。私はうっすらと微笑むと、汗ばんだ彼の足の内側に口付けて自分の痕を残した。
「……君は、君の、ままだ。何も、変わってなどいないぞ……」
自分にまとわりつく温かい内壁も縋るように締め付ける感触も何もかも。それらは今初めて知るものだったが、私はわかる。なぜならばこんなにも。
「……っ、ン、ンッ……」
自分の下で必死に声を殺す彼の姿に煽られた。吸い寄せられるように彼の唇に口付け、息を継ごうと上下する唇を舐めて貪る。弾力と抵抗を返す舌と唇の間から時々、呻くような声が響いてくる。それが余計に熱を煽った。思うさま味わった後、唇を離して彼の耳元で囁いた。
「君は汚れてなどいない。汚れてなど……」
わかるだろう?
それは言葉にしない。かわりに抉るようにして中を突いた。

──君がもう私の前に立てない?そんなはずがないだろう?

なぜならば君は、何一つ変わっていないのだから。
こんなにも自分を夢中にさせるのだから。君は。



 

 

 

 

 

 

 




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